【スーパータスカー(Super Tasker)】(マルチタスク人間)
●同時に複数の仕事を、問題なくこなせる人間
●スーパーマルチ人間
一見まともだが、よくよく考えてみると、おかしい。
どう考えても、おかしい。
そんなニュースが、今日(2012年3月初旬)、あちこちのニュースサイトに載った。
称して「スーパータスカー(Super Tasker)。
つまり複数の仕事を同時にこなせる、「スーパーマルチ人間」と。
しかも「人間の40人に1人が、スーパーマルチ人間」?
●映画の世界
映画の世界でも、超能力(スーパーパワー)がブームになっている。
スーパーマンからはじまり、スパイダーマン、スターウォーズなどなど。
ハリーポッターやドラキュラ、バンパイアも、その仲間に入る。
神や悪魔をテーマにしたものも、多い。
超能力者そのものを扱った映画も、多い。
が、それはあくまでも映画の世界の話。
現実には、ありえない。
ありえないが、このところその境目、つまり現実と空想の境目が、ぼんやりしてきた。
そんなとき、「スーパーマルチ人間」なるものが、現れた。
何かしら、ふつうの人間とはちがう、特殊能力をもった人間ということらしい。
おおかたの人は、その記事を読んで、そう思った。
私も、そう思った。
●遺伝子?
30年も前なら、「バカな」と言って吐き捨てたかもしれない。
が、最近は、そうでない。
「ひょっとしたら、ありえるかもしれない」と。
そういうふうに考える人が多くなった。
超能力を売り物にした、カルト教団となると、今では無数にある。
そんなとき、「スーパーマルチ人間」なるものが現れた。
遺伝子がちがうのか?
そう考えた人もいるかもしれない。
が、そう考えるのは、待った!
●論理の穴
結論を先に言えば、論理の欠落。
この論文には、論理の欠落、つまり「穴」がある。
それについては、これからゆっくりと書くことにする。
私はこの種の論文を読むたびに、アメリカ人の脳みそを疑う。
ユタ大学に籍を置く研究者の論文ということだから、一応の敬意を払う。
慎重に読む。
しかしどう考えても、おかしいものは、おかしい。
……ということで、この原稿を書き始めた。
まず、その原本を紹介する。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●ITPROサイトより
ITPROサイト(アメリカIBM)に、こんな興味深い記事が載っていた。
++++++++++++以下、ITPRO サイトより++++++++++++++
'Supertaskers' can safely use mobiles while driving
「スーパータスク人間」と呼ばれる人は、運転中でも、携帯電話を使うことができる。
A small minority of individuals show no loss of reaction time or mental skills when combining mobile phone use and motorway driving.
小数の人は、道路を運転中でも、携帯電話を、反応時間や精神的なスキルの損失なしで使うことがわかった。
By Martin James, 30 Mar 2010 at 12:01(2010年3月20日付け)
A University of Utah study into the effects of mobile phone use on people's driving skills has come to the expected conclusion that using a phone while driving can be highly dangerous.
ユタ大学の研究によれば、運転中に携帯電話を使用することは、きわめて危険であるという結論になった。
Or at least that's the case for most of us. The study also made the entirely unexpected discovery that for one in 40 of us, there were no signs of impairment whatsoever.
ほとんどの人にとってはそうかもしれないが、その一方で、40人に1人は、そういう影響を受けない人がいることがわかった。
これは予期しない結果でもあった。
University psychologists Jason Watson and David Strayer tested 200 subjects in two motorway driving simulation tests, one of which also involved having a hands-free mobile phone conversation that required them to memorise words and solve maths equations.
大学の心理学者ジェイソン•ワトソンとデビッド•ストレイヤーは、200人について、道路での運転シミュレーションテストを行った。
一方で、ハンズフリーの携帯電話で話してもらい、同時に、単語を覚えさせたり、数学の方程式を解かせたりした。
For the vast majority of the test subjects, the researchers recorded an average 20 per cent increase in braking response time, a 30 per cent increase in following distance, an 11 per cent drop in memory performance and a three per cent drop in the ability to do maths problems.
ほとんどの人のばあい、ブレーキ反応は、20%遅くなり、つぎの(加速反応も)30%遅くなった。
また記憶力は11%、数学の問題を解く力は、3%落ちた。
However, the five 'supertaskers' not only showed no appreciable difference in following distance, braking time and maths ability, but remarkably they actually displayed a three per cent improvement to memory performance.
しかし「スーパータスカー」と呼ばれる人たちは、ブレーキ時も加速時においても、これといった違いを見せなかった。
数学の力も落ちなかった。
そればかりか、記憶力においては、3%の向上が見られた。
“According to cognitive theory, these individuals ought not to exist,” Watson says in a statement. “Yet, clearly they do, so we use the 'supertasker' term as a convenient way to describe their exceptional multitasking ability.”
「認知理論」によれば、こうしたスーパータスカーと呼ばれる人は存在しないことになっている。
それについてワトソン氏は、「が、彼らはできる。こうしたマルチタスク能力をもっている人を、スーパータスカーと呼ぶことができる」と。
However, with the study likely to be taken as justification for self-proclaimed 'supertaskers' to continue to take risks by using their mobiles while driving, Watson had a word of caution.
が、こうなると自称「スーパータスカー」という人を、正当化することになるかもしれない。
つまり運転中に、携帯電話を使っても、危険はない、と。
ワトソン氏は、それについては、つぎのように、警告している。
“Given the number of individuals who routinely talk on the phone while driving, one would have hoped that there would be a greater percentage of supertaskers,” he commented.
その数字を明らかにすると、より多くのスーパータスカーが生まれることになると、彼はコメントしている。
The findings will be published later this year in the Psychonomic Bulletin and Review.
調査結果は、レビューで今年後半に公開されることになっている。
(以上、マーティン•ジェームズ、12:01 2010年3月30日記)
++++++++++++以上、ITPRO サイトより++++++++++++++
●スーパータスカー(マルチタスク人間)
要約すれば、約40人に1人は、たとえば車の運転中でも、問題なく、同時に複数の仕事ができるということらしい。
(だからといって、そういう人間を認めることはできない。
運転中に携帯電話をかける行為を、正当化する根拠になってしまう、と。)
●マルチタスクvsシングルタスク
今まで、私は「マルチ人間」というときは、複数の才能を同時にもっている人のことをいうと理解していた。
レオナルド・ダ・ビンチを例にあげるまでもない。
たとえば、画家でありながら、同時に音楽家であるとか、そういう人間をいう。
その一方で、ひとつの分野にしか、才能を示さない人がいる。
(ふつうは、みな、そうだが……。)
そういう人を「シングルタスク人間」と呼んでよいかどうかということについては、わからない。
どんな人も、加齢ともに、思考回路を完成し、脳の働きを自動化していく。
画家は画家として、その道を完成させようとする。
音楽家は音楽家として、その道を完成させようとする。
完成度が高まれば高まるほど、『二兎を追う者は……』となる。
……というか、時間の限界を感ずるようになる。
残された時間をどう使うか……ということを考えていくと、どうしても的(まと)を、ひとつにしぼらざるを得なくなる。
「あれも、これも……」というわけにはいかない。
シングルタスク、イコール、「悪い」ということでもない。
が、ここでいう、「スーパータスク人間(スーパータスカー)」と呼ばれる人は、私が考えていた「マルチタスク人間」とは、別の人であるようだ。
複数の分野ですぐれた才能を示す人ということではない。
つまり脳みその中で、複数の仕事をこなせる人という意味らしい。
●コンピューター
コンピューターの世界では、マルチタスクは、今や常識。
ワープロを操作しながら、同時に、動画を動画サイトへUPすることができる。
あるいはファイルのコピーをすることもできる。
初期(1980年代)のころのパソコンには、それができなかった。
ひとつの作業が終わってから、(つまりそれが終わるまで待ってから)、つぎの作業に移行した。
ここでいう「スーパータスク人間」という考え方は、たぶんにコンピューターの概念に影響されたものと思われる。
コンピューターは複数の作業を同時にこなすことができる……だから人間にも、そういう人がいるのではないか、と。
で、この実験が始まった……らしい。
が、この実験には、素人の私が考えても、おかしな点(=疑問点)はいくつかある。
●熟練者vs初心者
たとえば「運転」といっても、熟練者と初心者がいる。
熟練者は、ほとんど何も考えず、運転できるだろう。
手や足が、状況に応じて、勝手に動く。
が、初心者にとっては、そうではない。
状況に応じて、そのつど考えなければならない。
そうしたちがい、つまり熟練者と初心者を一緒くたにし、統計として調査結果を出したことに、そもそもの大きなミスがある。
もう少しわかりやすい例で考えてみよう。
●慣れ
たとえば私は今、こうしてものを考えながら、キーボードを叩いている。
慣れた人には、何でもない行為である。
考えたことが、そのまま文字となり、モニター上にそれが現れる。
さらに言えば、私などは、キーボード操作に、かなり慣れているから、こうしてキーボードをたたきながらも、午後からの仕事に段取りを、同時に考えることができる。
が、初心者にとっては、そうではない。
どこにどのキーがあるか、それをさがすだけでも、たいへん。
考えるヒマがないというよりは、考えそのものをまとめることができない。」
さらに言えば、同じ運動でも、道路を歩くのと、ルームウォーカーの上を歩くのとではちがう。
道路を歩くときは、あちこちに注意を払わなければならない。
一方、ルームウォーカーの上を歩くときは、ほとんど何も考えない、イコール、数学の問題を解きながらでも歩くことができる。
自動車の運転も、それと同じに考えてもよい。
つまり「慣れ」。
心理学の世界では、「思考回路ができることによる自動化」という。
ほとんど何も考えないで運転できる人なら、運転をしながら、数学の問題を解くことができるはず。
反対に、そうでない人は、そうでない。
そうした「慣れ」も計算に入れ、スーパータスク人間かどうかを判断しなければならない。
少なくとも、自動車の運転というかぎられた範囲だけで、その人がスーパータスク人間かどうかを、判断していけない。
では、どんなとき、スーパータスク型人間と判断してよいか。
●スーパータスク型人間
話は少し脱線するが、私が「スーパータスク」なるものを自覚するのは、通訳のときである。
日本語と英語を同時に考える。
しかしこれはけっして、楽な作業ではない。
脳の中でも、日本語を司る分野と、英語を司る分野はちがう。
日本語は、左脳、英語は右脳と言われている。
つまり通訳のときは、その両方を、同時に働かさねばならない。
そこで英語を話しているとき、いきなり日本語を聞いたり、あるいはその逆のことがあると、脳がそのあと、ふつうでない疲労感を覚えることがある。
最近では、英文を日本語に翻訳していると、若いときには感じなかった疲労感を覚える。
だから洋画でも、字幕を見て楽しむときは、字幕だけを見て楽しむ。
英語を聞いて楽しむときは、逆に、字幕を見ないで、楽しむ。
それをしないと、ここにも書いたように、そのあと、ガクンと疲れる。
で、右脳と左脳は、太い電線のようなものでつながっている。
「脳梁」と呼ばれる部分である。
この脳梁を通し、右脳と左脳は、たがいに情報を交換することができる。
が、加齢とともに、この脳梁の働きが悪く(?)なる。
さらにたいへんなのが、同時通訳。
訳文を考えていたのでは、同時通訳などできない。
ほぼ無我の状態で、勘で通訳する。
このばあい、その脳梁の働きのよい人を、「スーパータスク人間」という(?)。
少なくとも、日本語と英語を同時に処理できる。
あるいは左脳が司る論理や分析をしながら、右脳が司る抽象的概念や図形を同時に処理できる。
運動分野にしても、そうだ。
自動車の運転という運動をしながら、別の脳を独立させることができる。
論文の内容は、どうやらそういうことらしい。
●Cマーク
少し頭が混乱してきた。
この原稿を読んでいるみなさんも、そうだろう。
で、結論。
天下のユタ大学の研究者の研究にケチをつけて悪いが、私なら、この論文に、「C」マークをつける。
200人の人について調べたということだが、この実験だけでは、必要十分条件の「十分」の部分を満たしていない。
この実験結果が正しいということを証明するためには、つぎの2つのことを証明しなければならない。
(1)この実験で、スーパータスク人間と証明された人は、ほかのさまざまな分野でも、それができることを証明しなければならない。
たとえば読書をしながら、電話で客との応対ができる。
料理をしながら、数学の問題が解ける、とかなど。
(2)被験者200人の選び方にも問題がある。
どういう基準で選んだのか。
先にも書いたように、熟練者と初心者の区別、(こうした研究調査では、きわめて基礎的な部分だが……)、その区別をしていない。
また分野を、「運転」にかぎっているのも、問題である。
近くのラーメン屋の親父さんは、客と雑談を交わしながらでも、うまいラーメンと作ることができる。
考えようによっては、ラーメン屋の親父は、「スーパータスク人間」ということになる。
が、それも「慣れ」、つまり心理学でいうところの「自動化」と考えれば、何でもない。
あるひとつの行動の自動化ができれば、その行動は、それほど意識しなくても、できるようになる。
そこで2番目に、この実験で、「スーパータスク人間ではない」と判断された、残り160人について、ほかの分野でも、シングルタスク人間である(イコール、スーパータスク人間ではない)という証明をしなければならない。
以上、2つの条件を満たして、はじめて、必要十分条件ということになる。
たまたま運転中の作業だけを調べ、マルチタスク人間がいると結論づけるのは、きわめて非論理。
非論理というより、危険。
こんなインチキな論文が、世界中のネットに流れること自体、バカげている。
●プリウス事件
……ということで、どう考えても、この論文は、おかしい。
私は、TOYOTAのプリウス事件(急加速問題)以来、私はアメリカ人の研究者の脳みそを疑ってみるようになった。
そこらの高校生でもしないような、ミスを、平気でする。
インチキまではしないが、(見落とし)が多い。
運転中に、単語を暗記できたり、数学の問題ができるからといって、「スーパータスク人間」というのは、論理的に無理(アナ)がある。
●認知理論
ここで「認知理論」という言葉が出てきた。
心理学では、よく使われる言葉である。
それについては、たくさんの原稿を書いてきた。
しかし「認知理論によれば……」(論文)というところが、よく理解できない。
「そんな理論、あったかなア~?」と。
私が書いた原稿を探してみる。
あくまでも参考に……。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●結婚はしてみたけれど……(認知的不協和)
++++++++++++++++
結婚はしてみたけれど、こんなハズではなかった……という
夫婦は多い。
心理学でいえば、「認知的不協和」ということになる。
++++++++++++++++
●認知的不協和
「個人のもつ認知に矛盾やアンバランスが生じたことを、
アメリカの心理学者のフェスティンガーは、認知的不協和と
名づけた」(大村政男著「心理学」ナツメ社、P172)とある。
日常的によく経験する。
先日もあるところへ旅行した。
その旅行先で、昼食にとある食堂へ入った。
しかし立派だったのは、店構えだけ。
値段ばかり高く、まずかった。
で、その食堂を出て、しばらく歩くと、そこに
行列のできた食堂が何軒かあった。
レジの前には、順番待ちの客が、ズラリと並んでいた。
それを見て、「こういうところで食べればよかった」と、
少なからず、後悔した。
言うなれば、これも認知的不協和?
●結婚相手
しかしこれが結婚相手となると、ことは深刻。
子どもができれば、なおさらである。
そういうとき、人間は、認知的不協和から
「脱出」するため、4つのパターンから、
その一つを選ぶ(参考:同書)。
(1)この人しか私にはいないと、自分を納得させ、ほかの人と比較しない。
(2)離婚はしたくないので、がまんする。
(3)相手を育てるのは私と考え、ともに前向きに努力する。
(4)相手のよいところをさがし、それだけを評価するようにする。
この4つのパターンは、「心理学」を参考に、私が適当に考えたものである。
が、結婚生活というのは、実際には、もう少し複雑。
そのつど、この4つのパターンが、交互に、あるいは同時に、夫婦を襲う。
ときに自分を納得させ、ときにがまんし、また別のときには、あきらめる……。
この連続。
が、まずいのは、何と言ってもストレス。
認知的不協和も、ある一定の限度内なら、生活のスパイスとなる。
が、その限度を超えると、とたんにストレスとなって、その人を襲う。
おおまかにいえば、つぎのサイクルを踏む。
(平穏期)→(緊張期)→(爆発)→(沈静期)→(平穏期)……と。
しかしこれもどちらかというと、仲がよい夫婦のばあい。
ずっと(平穏期)のままという夫婦も、(緊張期)のままという夫婦もいるにはいるが、
そういう夫婦のほうが、あ・ぶ・な・い。
ただ周期の長さには、個人差がある。
2~3か月ごとに(爆発)を迎え、大喧嘩する夫婦もいる。
1~2年ごとに(爆発)を迎えるという夫婦もいる。
あるいは小刻みなサイクルを繰り返しながら、大きなサイクルを繰り返すという
夫婦もいる。
若い夫婦ほど、サイクルが短いということになるが、それにも個人差がある。
●夫婦喧嘩
要するに夫婦喧嘩(=爆発)も、しかたの問題ということ。
だから昔から、こう言う。
『夫婦喧嘩は、犬も食わぬ』と。
つまり何でも食べる犬でも、夫婦喧嘩は食べない、と。
「仲のよい夫婦ほど夫婦喧嘩をし、一時的ですぐ和合するから、仲裁に入るのは
愚かである」(広辞苑)という意味。
大切なことは、こう考えること。
どんな夫婦にも、認知的不協和はつきもの。
あとは、どううまくつきあっていくかということ。
それが夫婦ということになる。
(付記)
最近、気がついたが、結果として離婚していく夫婦には、ある共通のパターンがある。
同時にそれぞれが、離婚に向かうというケースは、少ない。
そのとき、先に離婚を覚悟するほうを、離婚側とする。
どちらかというと不本意ながら、離婚をさせられるほうを、被離婚側とする。
ふつうは被離婚側が気がつかないうちに、離婚側が、離婚を覚悟を決めてしまう。
そしてある程度……というか、その覚悟がしっかりできた段階で、離婚側が、
被離婚側に、離婚話を持ち出す。
「離婚する」「離婚させてください」と。
定年離婚と呼ばれる離婚には、こうしたケースが多い。
で、そのときのこと。
離婚側のほうには、微妙な変化が現れる。
相手が夫であれ、妻であれ、(妻であることのほうが多いが……)、
(1)電話などでの応対が、ぞんざいになる。
(2)きめのこまかい交際をしなくなる。(何かものを送っても、礼のあいさつがない。)
(3)小さな悪口を、それとなく会話にまぜる。
(4)軽蔑したような表現が多くなる。
(5)会話の内容が事務的になり、しっくりとかみ合わなくなる。
で、しばらくそういう状態がつづき、部外者が「?」と思っていると、そのまま
離婚……ということになる。
たとえば数年前、私はある知人に電話をした。
その知人は、その町の中心部で事務所を開いたのだが、それがすぐ行き詰ってしまった。
そのことを知っていたので、その知人の妻に電話をしたとき、「ご主人も、たいへんですね」
と私は言った。
それに対して知人の妻は、「……あの人は、何をしても、ドジばっかり……」と。
小さい声だったが、どこか吐き捨てるような言い方だった。
で、あとで知ったのだが、そのすぐあと、知人夫婦は離婚していた。
●結婚論
一般論からいうと、(あるいは私の経験論ということになるが)、年齢が若いときに、
ラブラブの状態で結婚した人ほど、皮肉なことに、認知的不協和は起こりにくい。
一方、晩婚型で、計算高く結婚した人ほど、認知的不協和は起こりやすい。
年齢が高い分だけ、それだけ相手をよく見ているかというと、そうでもない。
あるいは、いくら知ったつもりでいても、人間を知りつくすのは、それほどまでに
むずかしいということ。
このことは、結婚歴40年近い、私にとっても、そうである。
いまだにワイフについて、わからないところがある。
(ワイフにしても、そうだろう。)
だからやはり結婚というのは、電撃に打たれるような衝撃を感じて、何も考えず、
ラブラブのまま、結婚するのがよいということになる。
盲目的な結婚が悪いというのではない。
どうせ、みな、盲目なのだから……。
♪Wise men say, only fools rash in. But I can’t help falling love with you…
(愚かモノだけが、結婚に突進すると賢者は言う。しかし私はあなたに恋をするのを
止めることができない……。)
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 スーパータスク型人間 認知理論 認知的不協和)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
(参考までに、2002年に書いた原稿より)
●右脳教育
++++++++++++++++++++++
右脳教育は、果たして安全なのでしょうか?
まだその安全性も、確認されていない段階で、
幼児の頭脳に応用する危険性。みなさんは、
それを、お考えになったことがありますか。
たった一晩で、あの百人一首を暗記してしま
った子ども(小学生)がいました。
しかしそんな能力を、本当にすばらしい能力
と安易に評価してよいのでしょうか。
ゲームづけになった子どもたち。幼いころか
らテレビづけになった子どもたち。今さら、
イメージ教育は必要ないと説く学者もいます。
それに右脳と左脳は、別々に機能しているわけ
ではありません。その間は、「交連繊維」と呼ば
れる神経線維で結ばれ、一番大きな回路である、
「脳梁(のうりょう)」は、2億本以上の繊維
でできています。
右脳と左脳は、これらの繊維をとおして、交互
に連絡を保ちながら、機能しています。
脳のしくみは、そんな単純なものではないよう
です。
そうそう、言い忘れましたが、一晩で百人一首
を暗記したのは、あの「少年A」です。
イメージの世界ばかりが極端にふくらんでしま
うと、どうなるか。そのこわさを、少年Aは、
私たちに教えてくれました。
++++++++++++++++++++++++
アカデミックな学者の多くは、「右脳教育」なるものに、疑問を抱いています。渋谷昌三氏もそ
の1人で、著書「心理学」(西東社)の中で、こう書いています。
「なにやら、右脳のほうが、多彩な機能をもっていて、右脳が発達している人のほうが、すぐ
れているといわんばかりです。
一時巻き起こった、(現在でも信者は多いようですが)、「右脳ブーム」は、こういった理論から
生まれたのではないでしょうか。
これらの説の中には、まったくウソとはいえないものもありますが、大半は科学的な根拠のあ
るものとは言えません」(同書、P33)。
++++++++++++++++++++++++++
●右脳教育への警鐘
論理的な思考力をなくす子どもたち。ものの考え方が直感的で飛躍的。今、静かにものを考えられる子どもが、少なくなってきています。
そうした危惧感を覚えながら書いたのが、つぎの原稿です(中日新聞発表済み)。
+++++++++++++++++++++
【親が右脳教育を信奉するとき】
●左脳と右脳
左脳は言語をつかさどり、右脳はイメージをつかさどる(R・W・スペリー)。その右脳をきたえると、たとえば次のようなことができるようになるという(七田眞氏)。
(1)インスピレーション、ひらめき、直感が鋭くなる(波動共振)、
(2)受け取った情報を映像に変えたり、思いどおりの映像を心に描くことができる(直観像化)、
(3)見たものを映像的に、しかも瞬時に記憶することができる(フォトコピー化)、
(4)計算力が速くなり、高度な計算を瞬時にできる(高速自動処理)など。こうした事例は、現場でもしばしば経験する。
●こだわりは能力ではない
たとえば暗算が得意な子どもがいる。頭の中に仮想のそろばんを思い浮かべ、そのそろばんを使って、瞬時に複雑な計算をしてしまう。あるいは速読の得意な子どもがいる。読むというよりは、文字の上をななめに目を走らせているだけ。それだけで本の内容を理解してしまう。
しかし現場では、それがたとえ神業に近いものであっても、「神童」というのは認めない。もう少しわかりやすい例で言えば、一〇〇種類近い自動車の、その一部を見ただけでメーカーや車種を言い当てたとしても、それを能力とは認めない。「こだわり」とみる。
たとえば自閉症の子どもがいる。このタイプの子どもは、ある特殊な分野に、ふつうでないこだわりを見せることが知られている。全国の電車の発車時刻を暗記したり、音楽の最初の一小節を聞いただけで、その音楽の題名を言い当てたりするなど。つまりこうしたこだわりが強ければ強いほど、むしろ心のどこかに、別の問題が潜んでいるとみる。
●論理や分析をつかさどるのは左脳
そこで右脳教育を信奉する人たちは、有名な科学者や芸術家の名前を出し、そうした成果の陰には、発達した右脳があったと説く。しかしこうした科学者や芸術家ほど、一方で、変人というイメージも強い。つまりふつうでないこだわりが、その人をして、並はずれた人物にしたと考えられなくもない。
言いかえると、右脳が創造性やイメージの世界を支配するとしても、右脳型人間が、あるべき人間の理想像ということにはならない。むしろゆっくりと言葉を積み重ねながら(論理)、他人の心を静かに思いやること(分析)ができる子どものほうが、望ましい子どもということになる。
その論理や分析をつかさどるのは、右脳ではなく、左脳である。
●右脳教育は慎重に
右脳教育が脳のシステムの完成したおとなには、有効な方法であることは、私も認める。しかしだからといって、それを脳のシステムが未発達な子どもに応用するのは、慎重でなければならない。脳にはその年齢に応じた発達段階があり、その段階を経て、論理や分析を学ぶ。右脳ばかりを刺激すればどうなるか? 一つの例として、神戸でおきた『淳君殺害事件』をあげる研究家がいる(福岡T氏ほか)。
●少年Aは直観像素質者
あの事件を引き起こした少年Aの母親は、こんな手記を残している。いわく、「(息子は)画数の多い難しい漢字も、一度見ただけですぐ書けました」「百人一首を一晩で覚えたら、五〇〇〇円やると言ったら、本当に一晩で百人一首を暗記して、いい成績を取ったこともあります」(「少年A、この子を生んで」文藝春秋)と。
少年Aは、イメージの世界ばかりが異常にふくらみ、結果として、「幻想や空想と現実の区別がつかなくなってしまった」(同書)ようだ。
その少年Aについて、鑑定した専門家は、「(少年Aは)直観像素質者(一瞬見た映像をまるで目の前にあるかのように、鮮明に思い出すことができる能力のある人)であって、(それがこの非行の)一因子を構成している」(同書)という結論をくだしている。
要はバランスの問題。左脳教育であるにせよ右脳教育であるにせよ、バランスが大切。子どもに与える教育は、いつもそのバランスを考えながらする。
++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
●才能とこだわり
自閉症の子どもが、ふつうでない「こだわり」を見せることは、よく知られている。たとえば列車の時刻表を暗記したり、全国の駅名をソラで言うなど。車のほんの一部を見ただけで、車種からメーカーまで言い当てた子どももいた。クラッシック音楽の、最初の一小節を聞いただけで、曲名と作曲者を言い当てた子どももいた。
こうした「こだわり」は、才能なのか。それとも才能ではないのか。一般論としては、教育の世界では、たとえそれが並はずれた「力」であっても、こうした特異な「力」は、才能とは認めない。たとえば瞬時に、難解な計算ができる。あるいは、20ケタの数字を暗記できるなど。あるいは一回、サーッと曲を聞いただけで、それをそっくりそのまま、ピアノで演奏できた子どももいた。
まさに神業(わざ)的な「力」ということになるが、やはり「才能」とは認めない。「こだわり」とみる。
たとえばよく知られた例としては、少し前、話題になった子どもに、「少年A」がいる。あの「淳君殺害事件」を起こした少年である。
彼は精神鑑定の結果、「直観像素質者※」と鑑定されている。
直観像素質者というのは、瞬間見ただけで、見たものをそのまま脳裏に焼きつけてしまうことができる子どもをいう。
少年Aも、一晩で百人一首を暗記できたと、少年Aの母親は、本の中で書いている(「少年A、この子を生んで」文藝春秋)。
そういう特異な「力」が、あの悲惨な事件を引き起こす遠因になったとされる。
と、なると、改めて才能とは何かということになる。ひとつの条件として、子ども自身が、その「力」を、意識しているかどうかということがある。たとえば練習に練習を重ねて、サッカーの技術をみがくというのは才能だが、列車の時刻表を見ただけで、それを暗記できてしまうというのは、才能ではない。
つぎに、才能というのは、人格のほかの部分とバランスがとれていなければならない。
まさにそれだけしかできないというのであれば、それは才能ではない。たとえば豊かな知性、感性、理性、経験が背景にあって、その上ですばらしい曲を作曲できるのは、才能だが、まだそうした背景のない子どもが、一回聞いただけで、その曲が演奏できるというのは、才能ではない。
脳というのは、ともすれば欠陥だらけの症状を示すが、同じように、ともすれば、並はずれた、「とんでもない力」を示すこともある。私も、こうした「とんでもない力」を、しばしば経験している。
印象に残っている子どもに、S君(中学生)がいた。
ここに書いた、「クラッシック音楽の、最初の一小節を聞いただけで、曲名と作曲者を言い当てた子ども」というのが、その子どもだが、一方で、金銭感覚がまったくなかった。
ある程度の計算はできたが、「得をした」「損をした」「増えた」「減った」ということが、まったく理解できなかった。
1000円と2000円のどちらが多いかと聞いても、それがわからなかった。
1000円程度のものを、200円くらいのものと交換しても、損をしたという意識そのものがなかった。
母親は、S君の特殊な能力(?)ばかりをほめ、「うちの子は、もっとできるはず」とがんばったが、しかしそれはS君の「力」ではなかった。
教育の世界で「才能」というときは、当然のことながら、教育とかみあわなければならない。
「かみあう」というのは、それ自体が、教育できるものでなければならないということ。
「教育することによって、伸ばすことができること」を、才能という。
が、それだけでは足りない。その方法が、ほかの子どもにも、同じように応用できなければならない。
またそれができるから、教育という。
つまりその子どもしかできないような、特異な「力」は、才能ではない。
こう書くと、こだわりをもちつつ、懸命にがんばっている子どもを否定しているようにとらえられるかもしれないが、それは誤解である。
多かれ少なかれ、私たちは、ものごとにこだわることで、さらに自分の才能を伸ばすことができる。
現に今、私は電子マガジンを、ほとんど2日おきに出版している。毎日そのために、数時間。
土日には、4、5時間を費やしている。その原動力となっているのは、実は、ここでいう「こだわり」かもしれない。
時刻表を覚えたり、音楽の一小節を聞いただけで曲名を当てるというのは、あまり役にたたない「こだわり」ということになる。
が、中には、そうした「こだわり」が花を咲かせ、みごとな才能となって、世界的に評価されるようになった人もいる。
あるいはひょっとしたら、私たちが今、名前を知っている多くの作曲家も、幼少年時代、そういう「こだわり」をもった子どもだったかもしれない。
そういう意味では、「こだわり」を、頭から否定することもできない。
(02―11-27)※
(はやし浩司 右脳教育 右脳教育への疑問 こだわり 少年A イメージが乱舞する子ども 子供 才能とこだわり 思考のバランス)
Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司
【アメリカ人の脳みそ】(TOYOTAのプリウス急加速問題)
アメリカ人の脳みそを疑うようになったのは、
(それ以前からも、疑っていたが……)、
あのプリウスの急発進問題が起きてから。
大学とは名ばかり。
もちろん優秀な教授や学生が集まる大学も多いが、
そうでない大学も、少なくない。
南イリノイ大学もそのひとつ。
その大学に、デービッド・ギルバート教授という教授がいる。
彼は、プリウスの急加速を、実験で証明できたと主張した。
が、その方法が、稚拙。
幼稚。
バカげている。
『ギルバート教授は、「トヨタ・アバロン」のアクセル回路に、5ボルトを加えてショートさせた状態で走行テストを行ったところ、車載コンピューターがエラーコードを発することなく、急加速現象がみられた』とした。
それに対して、トヨタは書簡で、ギルバート教授が指摘した状況を再現するには、2本のワイヤーの絶縁状態を破壊する必要があった、としている。
つまりギルバート教授は、わざと電線をショートさせ、急加速現象を起こしてみせた。
そしてそれでもって、「トヨタのプリウスは、欠陥車」と結論づけた。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
以下、当時、私がBLOGに書いた原稿。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●アメリカ人の論理力(TOYOTAのプリウス問題)
●アメリカ人の友人たちへ(To my friends in USA as to TOYOTA recall problem)
You have almost lost the last friend in Asia!
++++++++++++++++++++++
今度のTOYOTA問題を通して、君たちは、
アジアにおける最後の友人を失いつつある。
それを私たちは、とても残念なことに思う。
You have almost lost the last friend that had remained to be so in Asia through the TOYOTA problems, about which we feel very sorry.
より多くの日本人が、反米的になりつつある。
新米的であった私でさえ、アメリカに、大きく失望した。
そして今では、こう言うようになってしまった。
「アメリカなど、クソ食らえ!」と。
More and more Japanese are becoming anti-American and even I, whom I supposed myself to be a pro-American, do not hesitate to say, “Down with USA”.
再現性のない、インチキ実験?
報道映像の捏造?
さらには保険金目当ての、にせ事故?、などなど。
日本では、急加速は、一例も報告されていない。
それもそのはず。
この日本で、両足を、ブレーキとアクセルの両方にのせて運転する人はいない。
「事故の95%は、運転手によるもの。
車によるものは2%にすぎない」(アメリカ国家ハイウェイ安全局(NHTSA)会長)。
リコール後も、600万台のプリウスについて、60件の苦情があったとか。
(600万台につき、60件だぞ!
0・001%!
GM車やフォード車については、どうなのか?)
それについて、「NHTSAは、さらなる改善策をTOYOTAに命じた」とか。
アメリカよ、少しは、冷静になれ。
これを「日本叩き」と言わずして、何という?
A very doubtful experiment, which was proved to be a fake,
A fabricated report on TV,
False accidents reported in the Congress...,
and more over it is strange that none of these sorts of accidents are reported in Japan.
No stupid men put both feet on each a brake pedal and accelerator pedal at the same time in Japan.
Be calm!
NHTSA has ordered Toyota to provide a different solution, since 60 complains are reported among 6 million TOYOTA cars.
Isn't this "Japan Bashing"?
+++++++++++++++++++++
●TOYOTA問題
今回の一連のTOYOTA騒ぎは、何のか。
よくわからないが、ことの発端は、1教授のインチキ実験。
南イリノイ大学の、ギルバート教授。
彼はコードの絶縁体を意図的にはがし、それでもって、急加速を再現してみせた。
「(絶縁体がはがれるなどいうことは)、通常の状態では起こらない」というのが、一般的な常識。
そこで今度は、同教授は、5ボルトの電圧をかけ、「同じようなことが起こる」と実験してみせた。
しかし急加速問題は、何もTOYOTAで始まったわけではない。
同じような実験をすれば、ほかのメーカーの車でも、同じような反応を起こすことがわかった。
また似たような急加速は、TOYOTA車以外でも、アメリカでは、繰り返し、起きているという。
つまりこれは、TOYOTA車の問題というよりは、アメリカ人の車の乗り方に問題があると考えたほうが、正しい。
当初、「アクセルとブレーキを同時に踏むと……」という報道が流れたとき、私には、その意味がよくわからなかった。
「アクセルとブレーキを同時に踏むとは、どういうことなのか」と。
そのまま解釈すれば、アメリカ人というのは、両足を、アクセルとブレーキの両方に、足を載せて運転しているということになる。
しかし日本人は、そういう乗り方をしない。
そのためにアクセルもブレーキも右側(アメリカでは左側)に、寄せて並べてある。
●疑問
つぎつぎと新事実が、明るみになってきている。
が、今は私もまだよくわからないでいる。
報道された記事だけを集めておく。
後日、もう少し事実が明らかになった段階で、このつづきを書いてみたい。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
(注※)疑問だらけのデービッド・ギルバート教授の実験
トヨタ自動車は1日付の米議会あて書簡で、南イリノイ大学のデービッド・ギルバート教授が先週の公聴会で示した見解に反論した。
同教授は、2月23日の下院エネルギー・商業委員会の公聴会で、自ら行った実験でトヨタ車に発生したとされる急加速の状況を再現できたと証言、トヨタの電子系統に問題があるとの見解を示していた。
ASSOCIATED PRESS
南イリノイ大学のデービッド・ギルバート教授(2月23日の公聴会で) は、プリウスの急加速を、実験で証明できたと主張した。
この証言に対し、トヨタは書簡で、独自の調査と同社が調査を委託した技術コンサルティング会社エクスポネント(米カリフォルニア州)の調査結果に基づいて反論を展開した。
トヨタはトヨタ側の実験でもギルバート教授と同じ結果が得られたが、他のメーカーの車でも同じ状況が生じたと主張し、同教授の証言は誤解を招くと批判した。
エクスポネントは43ページに及ぶ報告書で、ギルバート教授の実験を他のメーカーの5車種で行ったところ、すべて同じ状況が発生したことを明らかにし、実験のような状況は「きわめて可能性の低い欠陥が重なった場合にしか生じない」と結論づけた。
ギルバート教授は23日の証言で、「トヨタ・アバロン」のアクセル回路に5ボルトを加えてショートさせた状態で走行テストを行ったところ、車載コンピューターがエラーコードを発することなく、急加速現象がみられた、とした。
トヨタは書簡で、ギルバート教授が指摘した状況を再現するには、2本のワイヤーの絶縁状態を破壊する必要があった、としている。
ギルバート教授から、トヨタとエクスポネントの実験結果に対するコメントは得られなかった。
トヨタの広報担当マイク・マイケルズ氏は、ギルバード教授の調査を「誤解を招く不適切なもの」とし、「システムをいじりまわしている」と批判した(以上「ウォール・ストリート・ジャーナル日本語版より)。
★以上の原文
Toyota Motor Corp. rebutted the findings of a study presented at a congressional hearing last week that claimed to replicate undetected sudden acceleration in its vehicles and called into question the company's electronics.
TOYOTAは、反証をあげた。
Based on its own study and one undertaken by the Menlo Park, Calif., engineering research firm Exponent, which has been hired by Toyota, the car maker said it was able to duplicate the result in Toyota vehicles found by David W. Gilbert, a professor at Southern Illinois University-Carbondale who testified at a House hearing. But Toyota said it also created the same response in vehicles made by competitors, which it said rendered Mr. Gilbert's findings misleading.
ギルバート教授がしたようなことをすれば、ほかのメーカーの車でも、同じようなことが起きることがわかった。
"We have reproduced the engine revving and engine speed increase in Toyota's vehicles," Toyota said in a statement dated March 1 and sent to congressional committees. "At the same time, we have also confirmed that a substantially similar kind of engine speed increase phenomenon occurs with the other manufacturers' vehicles."
Toyota said the tests Mr. Gilbert performed would not happen "in the actual market." To achieve Mr. Gilbert's results, Toyota said it had to cut and breach the insulation on two wires.
TOYOTAは、このような急加速は、TOYOTA車だけにかぎったことではなく、ギルバートの行ったようなテスト(=2本の線の絶縁体をはがし、接触させるようなこと)は、通常の状態では起きないと言った。
Mr. Gilbert said he will provide an official response but declined to comment on the findings by Exponent and Toyota. He said he may travel to California to meet with the research concern.
In the last week, Toyota has endured three bruising congressional hearings questioning its belated response to reports of sudden acceleration in its vehicles. While Toyota executives acknowledged the company failed to quickly respond to safety issues in the past, the company has maintained that faults in its electronics are not behind incidents of unwanted acceleration.
TOYOTAは、安全問題に迅速に答えなかったことは認めるものの、電子部品には欠陥はないと主張した。
Consumer safety advocates continue to challenge Toyota on that point, charging that the rise in acceleration reports—which have been linked to 52 deaths—is correlated to the installation of an electronic throttle control system in Toyota and Lexus models beginning in 2002.
消費者安全協会は、52人の死亡について、TOYOTA車との関連を追究する。
Mr. Gilbert, who testified before the House Commerce and Energy Committee Feb. 23, said he was able to replicate sudden acceleration without creating an error code in the vehicle's onboard computer by introducing five volts into the gas-pedal circuitry of a Toyota Avalon. In his report, Mr. Gilbert said his findings "question the integrity and consistency" of Toyota's computers to detect malfunctions.
5ボルトの電圧をかけたら、急加速現象が起きた。
In a 43-page report, Exponent, the research firm hired by Toyota to investigate its vehicles electronics, applied Mr. Gilbert's test to five models including a Honda Accord and a BMW 325i and found all five reacted similarly. Toyota added that it tested three competitor vehicles and found they experienced the same engine revving and speed increase when their electronics were similarly altered.
同じような急加速現象は、ほかのメーカーの車でも報告されている。
"For such an event to happen in the real world requires a sequence of faults that is extraordinarily unlikely," Exponent said in its report.
Toyota spokesman Mike Michels described Mr. Gilbert's research as "misleading and irrelevant." Mr. Gilbert was "gaming the system," Mr. Michels said.
ギルバートの報告は、誤解を招くもの。
また車をもてあそんでいるだけ。
Separately, the National Highway Traffic Safety Administration said Thursday it has received more than 60 complaints from Toyota owners who report they are still experiencing sudden unintended acceleration despite having their vehicle repaired by a Toyota dealer under the car maker's recalls.
TOYOTA のリコール後も、60件の苦情が、国家ハイウェイ安全局(NHTSA)に届いている。
"Officials are contacting each and every consumer to learn more about what they say is happening," the agency said.
現在、調査中。
If it appears that the remedy provided by Toyota isn't addressing the problem, NHTSA said it has the authority to order Toyota to provide a different solution.
"We are determined to get to the bottom of this," said David Strickland, administrator of the auto-safety agency.
国家ハイウェイ安全局(NHTSA)は、TOYOTAに、ほかの解決策を用意するよう、命じている(以上、ウォールス・トリート・ジャーナルより)。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
(注※)
【ニューヨーク時事・3月16日】
トヨタ自動車は15日、米カリフォルニア州サンディエゴ近郊の高速道路で急加速を引き起こしたとされるハイブリッド車「プリウス」について、技術者らが関連部品の徹底的な検査のほか、走行テストなど多岐にわたる検証を行ったものの、車両に急加速を引き起こすような異常は見られなかったとの暫定調査報告をまとめた。
調査は米道路交通安全局(NHTSA)関係者と米議員らの立ち会いの下、10、11の両日実施された。
トヨタは暫定報告で、
(1)アクセルペダルは正常に機能した。
(2)前輪ブレーキは著しく摩耗していたが、後輪ブレーキとハンドブレーキは良好な状態だった。
(3)正規品のフロアマットは留め金には固定されていなかったが、アクセルペダルを妨害もしくは接触するような状態は確認されなかった。
(4)エンジン点火装置は正常だった。
(5)変速レバーも正常だった。
(6)アクセルペダルとブレーキペダルを同時に踏んだ場合、エンジン出力が減退する機能も正常に作動した-などと説明した(以上、時事通信より)。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
(注※)
【ワシントン】米下院エネルギー・商業委員会が23日開いたトヨタ自動車の大量リコール(回収・無償修理)問題をめぐる公聴会で、急加速を経験したとして証言したロンダ・スミスさんのトヨタの「レクサスES350セダン」が、現在も使用されており、何のトラブルも起こしていないことが分かった。
米高速道路交通安全局(NHTSA)の広報担当者が24日明らかにした。
●公聴会で証言したロンダ・スミスさん
同スポークスマンによれば、NHTSAが先週、同車の新しいオーナーに聞いたところ、「走行距離3000マイル弱のところで購入し、何のトラブルも経験せずに走行距離は2万7000マイルになった」と答えたという。
スミスさんは証言で、2006年にテネシー州のハイウェーで制御不能の急加速に見舞われ、時速100マイル(約160キロ)になった恐怖の経験を涙ながらに語った。
その後、スミスさん夫妻は同車を売却した。
報告を受けたNHTSAの検査官は、フロアーマットがアクセルペダルに引っかかったことが原因と判断した。
しかしスミスさん夫妻は、フロアーマットのせいではないと主張。スミス夫人は、車が速度を上げる前にクルーズ・コントロール・ライトが点滅したことから、電子制御系の問題と考えている(以上、ウォール・ストリート・ジャーナル)。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
(注※)
ただ、2005年のNHTSA調査によると、自動車事故の約95%は運転者のミスによるもので、自動車の問題で起こるのは約2%にすぎない。
米自動車工業会のマッカーディ会長は同公聴会で、この報告を引用する予定だ。
同会長はまた、車の衝突データを集めるのにNHTSAがもっと多くの資金を必要としていることを訴える方針だ(以上、ウォールストリート・ジャーナル)。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
(注※)
先週、米カリフォルニア州のハイウェイで起きたトヨタのハイブリッド車プリウスの急加速事件で、連邦当局の調査によってブレーキに特殊な損耗パターンが見つかり、運転者の説明に疑問が浮かび上がっている。
関係している3人が語った。
先週8日、サンディエゴ近くのインターステート8号線で青の2008年型プリウスを運転していたジェームズ・サイクス氏(61)は緊急電話をかけて、何もしないのにスピードが時速90マイル(144キロメートル)まで上がったとオペレーターに伝えた。
最終的にはカリフォルニア・ハイウェー・パトロールのパトカーが同車に横付けし、止めることができた。
サイクス氏は走行中およびその後に、高速走行中に力いっぱいブレーキを踏み込んだと話した。
しかし、関係者によれば、米運輸省道路交通安全局(NHTSA)とトヨタの専門家が共同でこの車を調査したが、高速走行中に一定時間力いっぱいブレーキが踏み込まれた痕跡は見つからなかった。
ブレーキは変色し、損耗が見られたが、その摩擦パターンは運転者が断続的に普通程度の力でブレーキを踏んだことを示唆しており、サイクスさんが言うような踏み込みはうかがえなかったという。
これ以上の詳細は明らかではない。NHTSA当局者は12日、調査に関するコメントを拒否した(以上、ウォール・ストリート・ジャーナルより)。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 TOYOTA問題 急加速問題 トヨタのリコール リコール問題 南イリノイ大学 デービッド・ギルバート教授 はやし浩司 アクセルとブレーキ トヨタ プリウス 急発進 急加速)
Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司
●アホの上塗り(How are you ashamed of yourselves, Mr. NHTST, USA?)
To: NHTSA, USA
What has been the "TOYOTA" problem?
Please re-read my article which I wrote in 2010.
In that article, I wrote, "Be ashamed NHTSA!"
I also agein write here, "Be ashamed, NHTSA!"
+++++++++++++++++++++++++
Toyota Cars are not Spacecrafts!
Be ashamed, NHTSA!
Why NASA now?
++++++++++++++++++++
このたび、TOYOTAの「シロ」が、確定した。
まず、YOMIURIの記事から。
+++++++++++++以下、YOMIURI+++++++++++++++
ラフード米運輸長官は8日の記者会見で、末娘からの問いあわせに“お墨付き”を与えたことを明らかにした。
末娘は、昨年、トヨタ自動車の2011年型ミニバン「シエナ」を購入したという。
長官は、「娘は決定的な保証を欲しがった。だから、(安全当局に)チェックした上で、『買うべきだ』と答えた」と語った。
「我々が、トヨタ車が安全と感じているという例だ」とも述べた。
長官は昨年2月、議会で「トヨタ車の運転をやめるように」と発言していた。
+++++++++++++以上、YOMIURI+++++++++++++++
●ラフード米運輸長官
こんな記者会見程度で、TOYOTAが被った損害が、解消できるのか?
それで責任を果たしたことになるのか。
このラフード米運輸長官は、アホ中のアホ。
TOYOTA車に、宇宙線をあててまで、欠陥を探し出そうとした、その張本人である。
「車に、宇宙線」だぞ。
それもNASAと協力して?!
ラフード米運輸長官は、「論理学」の「ロ」の字も知らない、アホ。
アホ長官。
●2010年に書いた原稿より
昨年(2010)に、私が書いた原稿を、もう一度、よく読んでみてほしい。
ここに書いた「アホ」の意味が、よくわかってもらえるはず。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●TOYOTA車は、宇宙船ではない!(Re-written on April 1st)
(改作・10-04-01)
Toyota Cars are not Spacecrafts!
Be ashamed, NHTSA!
Why NASA now?
(2日前の3月30日に書いた、「TOYOTA車は、宇宙線ではない」の私の原稿が、あちこちのサイトで紹介され、今までにない波紋を広げている。
その原稿を補足してみる。)
2010年4月1日。
++++++++++++++++++++
交通事故の95%は、運転手の操作ミスによるもの。
そのうちの何割かは、アクセルとブレーキの不適切な操作によるもの。
ところで、こんな仰天ニュースが、読売新聞に載っていた。
そのまま紹介させてもらう。
+++++++++++以下、読売新聞、2010-3-30日++++++++++
【ワシントン=岡田章裕】トヨタ自動車の車の急加速問題で、米航空宇宙局(NASA)と全米科学アカデミー(NAS)が、米高速道路交通安全局(NHTSA)の要請を受けて事故原因の調査に乗り出すことが30日、明らかになった。
米ワシントン・ポスト紙が報じた。
トヨタ車の急加速問題では、ラフード米運輸長官が2月に電子制御系の調査を数か月かけて行う方針を表明したが、事故原因は特定されていない。放射線などが電子制御系に影響を与えているとの見方もあり、NHTSAは両機関の協力を得てより科学的な調査を行う考えだ。
+++++++++++以上、読売新聞、2010-3-30日++++++++++
●悪玉づくり
米高速道路交通安全局(NHTSA)は、何としても、TOYOTA車を、悪玉に仕立てあげたいらしい。
つまり引くに引けなくなった。
そこで今度は、NASAに事故調査依頼したという。
「放射線などが電子制御系に影響を与えているとの見方もある」とか?
ハア~~~?
電子制御装置を使用していない車など、いまどき、ない。
何らかの形で、使用している。
TOYOTA車だけが、電子制御装置を使用しているわけではない。
仮に放射線が電子制御装置に影響を与えるとするなら、すべての車に影響を与えるはず。
また与えるとしたら、平均して、すべての車に影響を与えるはず。
すべてのTOYOTA車に影響を与えるはず、でもよい。
つまりすべてのTOYOTA車が、急加速現象を起こすはず。
そこでまたまた論理学の話。
●疑問
(1)「放射線が影響を与える」というのなら、(仮にそれがわかったとしても)、では、その放射線とやらは、どこから発せられたのか。
そこまで解明しなければならない。
仮に宇宙からの放射線ということであれば、すべての車にまんべんなく、影響を与えるはず。
アメリカを走るTOYOTA車全体が、急加速現象を起こしてもおかしくない。
(2)この発想は、絶縁体をはがして、電線をショートさせてみた、どこかのアホ教授のそれと、どこもちがわない。
「通常では起こりえない状態を人為的に作り、それでもって、急加速の原因」と。
もしこんな手法がまかり通るなら、あちこちの電線を切ってつないでみればよい。
それでおかしくならない車など、ない!
つまりバカげている。
(3)米航空宇宙局(NASA)と全米科学アカデミー(NAS)に、調査を依頼したとか?
TOYOTA車は、宇宙船ではない。
地上を走る車である。
素人の私でも、放射線が、(強弱の程度にもよるのだろうが)、電子制御装置に影響を与えるかもしれないという程度のことは、おおかた予想がつく。
もしそうなら、さらに宇宙線の影響を受けやすい、航空機はどうなのかという問題がある。
もし「YES」という結果が出たら、車の心配より、飛行機やミサイルの心配をしたほうがよい。
(4)仮に「YES」という調査結果が出たとしても、それでもって、急加速現象の証拠とはならない。
もしこんな論法がまかりとおるなら、この先、運転の操作ミスで事故を起こした人は、こぞって、放射線影響説を唱えるようになるだろう。
「運転ミスではない」と。
●論理学(必要・十分条件)
もう一度、論理学の世界で、この問題を考えてみたい。
つぎの問題を考えてみてほしい。
【問】
ここに4枚のカードがある。
表には、(△)か(□)が描いてある。
『表が(△)のときは、裏には赤の(●)が、かならず描いてある』。
このことが正しいことを証明するために、あなたはつぎの4枚のカードのうち、どれをめくってみるか。
1枚目……(△)
2枚目……(□)
3枚目……赤の(●)
4枚目……青の(●)
単純に考えれば、1枚目と3枚目をめくればよいということになる。
1枚目をめくってみて、赤の(●)。
3枚目をめくってみて、(△)。
しかしこれでは先の命題を、正しいと証明したことにはならない。
1枚目をめくったとき、裏に赤の(●)があれば、命題の条件に合致する。
3枚目の赤の(●)をめくってみたときも、そうだ。
表に(△)があれば、命題の条件に合致する。
が、これでは十分ではない。
だからといって、「(△)のカードの裏は、赤の(●)」ということが、証明されたわけではない。
つまり先の命題が、正しいことを証明したことにはならない。
この命題が正しいと証明するためには、この命題はまちがっていない
ことを明らかにしなければならない。
が、その前に書いておかねばならない。
3枚目は、めくっても意味はない。
仮に3枚目をめくったとき、表に(△)が描いてなくても、(つまり(□)であったとしても)、この命題の証明には、影響を与えない。
では、どれをめくればよいのか。
1枚目をめくって、赤の(●)が出てくることは、命題の証明には必要。
しかし十分ではない。
そこでこの命題はまちがっていないことを証明しなければならない。
それを決定するのは、4枚目のカードということになる。
4枚目は青の(●)。
もしこのカードをめくってみて、(△)が出てこなければ、この命題はまちがっていることになる。
そこで4枚目をめくってみる。
表に(△)が出てくる。
この段階ではじめて、命題は、まちがっていないということになる。
これが「論理」である。
●必要・十分
話を戻す。
「放射線が、TOYOTAの車の電子機器に影響を与える」ことを証明するためには、TOYOTAの車に、放射線を照射して、不具合を起こすだけでは足りない。
「必要な実験」かもしれないが、「十分」ではない。
ほかのメーカーの車にも、照射してみなければならない。
つまり「ほかの車では、何ともなかった」ということを証明しなければならない。
(いまどき何らかの形で、電子機器を搭載していない車は、ない。)
さらに、もし放射線が原因であるとするなら、(放射線というのは、すべてのTOYOTA車に、まんべんなく降り注いでいるものだから)、「なぜ特定の車だけに、影響が出たのか」も証明しなければならない。
まだある。
「どうしてアメリカのTOYOTA車だけに、集中的に影響を与えたか」についても、証明しなければならない。
そこまで証明して、はじめて、「十分」となる。
また仮に放射線が原因であったとしても、そこまで予測可能であったかという問題も残る。
私もコンピュータを使うようになって、すでに35年になる。
コモドール社のPETの時代から、使っている。
が、今にいたるまで、一度だって、「放射線の影響」など、考えたこともない。
パソコン雑誌を書かさず読んでいるが、それが話題になった記事を見たこともない。
「放射線」という言葉は、いったい、どこから出てきたのか?
●振り上げた拳(こぶし)
調査が進むにつれて、話がおかしくなってきた。
米高速道路交通安全局(NHTSA)は、ふりあげた拳(こぶし)を、おろすにおろせなくなってしまった。
そこで言うに事欠いて、今度は、NASAに調査依頼?
バカげているというか、常軌を逸している。
もし米高速道路交通安全局(NHTSA)が調査すべきことがあるとするなら、両足を、アクセルとブレーキにかけて走っているドライバーが、アメリカには、何%いるか、だ。
飲酒運転をしているドライバーの数や、携帯電話をかけながら走っているドライバーの数でもよい。
最後に、現在、TOYOTAのハイブリッド車は、アメリカだけで、600万台以上も走っている。
そのうちの数百台に急加速現象が起きたという。
が、全体からみれば、1万分の1。
0・01%!
事故の95%は運転手の運転操作ミスという数字は、いったい、どうなるのか。
先にも書いたように、その大部分は、アクセルとブレーキの踏みまちがいによるもの。
アクセルとブレーキを踏みまちがえれば、どんな車だって、急加速する。
●統計的調査(補足)
ここで私は、冗談ぽく、「両足を、アクセルとブレーキにかけて走っているドライバーが、アメリカには、何%いるか」を調べたらよいと書いた。
しかしこれは冗談ではない。
たまたま昨日も、近くのTOYOTAの販売会社のディーラーの人と話した。
その人(50歳くらい)も、こう言っていた。
「アクセルとブレーキを同時に踏んで運転するなどということは、日本では考えられない」と。
つまり車の運転の仕方が、日本とアメリカとでは、ちがうらしい、と。
そこでこんなことを調査してみたらどうだろう。
(1)両足を乗せて運転する人の割合(%)と、急加速問題が起きた割合(%)。
たとえばA国では、両足を乗せて運転する人が、10%いたとする。
そしてそのA国では、TOYOTA車につき、100件の急加速現象が起きたとする。
割合が、全体の、0・01%だったとする。
これが基礎データ。
つぎにB国について調べる。
B国では、両足を乗せて運転する人が、5%いたとする(A国の10%の半分)。
同じようにB国でも急加速現象が起きたとする。
そのときその割合が、0・01÷2(半分)=0・005%と同じか、かぎりなくその数値に近ければ、急加速現象は、TOYOTA車の欠陥ではなく、運転の仕方に原因があるということになる。
同じように、(2)TOYOTA車における、運転操作ミスによる交通事故の割合(%)と、ほかのメーカーにおける、運転操作ミスによる交通事故の割合(%)でもよい。
●車の欠陥
交通事故の95%は、ドライバーの運転操作ミスによるものだという(米高速道路交通安全局(NHTSA))。
残りの5%が、車の欠陥によるものということになる。
そこで改めて数字を拾ってみる。
現在、アメリカでは、600万台のTOYOTAのハイブリッド車が走っている。
うち数百台が急加速現象を起こし、事故につながった可能性があるという(米高速道路交通安全局(NHTSA))。
仮に600台としても、0・01%。
もし私が米高速道路交通安全局(NHTSA)の幹部なら、TOYOTAの車を問題にする前に、車の車検制度を考える。
私の二男もアメリカで学生をしているころ、車を買った。
が、ドアを満足に開けることさえできなかった。
そういう日本では考えられないような車が、アメリカでは、平気で走っている。
どうしてそういうことを、問題にしないのか。
さらにドライバーの教育問題もある。
アメリカでは、高校生のとき、授業のひとつとして、運転教習を受け、免許を手にしている。
どういう教習をしているのかは知らないが、そのあたりにまで一度、メスを入れてみる必要があるのでは?
●放射線?
それにしても、今度は、「放射線」というところがすごい!
その少し前にも、TOYOTAのディーラーの人と話したが、この日本では、急加速問題は起きていないという。
(このところ車の買い換えもあって、たびたびTOYOTAの販売会社に、足を運んでいる。)
つまり放射線なるものは、どうして日本には降り注がないのか、そのあたりもきちんと証明しなければならない。
(あるいは大病院の放射線照射ルームの近くで、そういう事故が多発したというデータでもあれば、話は別だが……。)
また論理学の世界で考えるなら、先にも書いたように、「放射線が、電子制御装置に影響を与える」というだけでは、十分ではない。
「ほかの車の電子制御装置が、なぜ影響を受けないか」ということまで証明して、はじめて十分となる。
これ、称して、「必要・十分条件」という。
(私たちが子どものころは、こんなことは、中学校で学んだぞ!)
●だいじょうぶか、アメリカ!
私は、今度ほど、アメリカ人の脳みその程度を疑ったことはない。
また調査依頼を受けたNASAもNASA。
そのあたりの情報は、すでにもっているはず。
改めて調査するまでもなく、その情報を公開したらよい。
なお私なら放射線より先に、たとえば静電気とか、稲妻とか、あるいは走行中の振動が与える影響について調べる。
ついでに肉食人種たちが出す、あの臭いおならでもよい。
さらに悪霊のたたりでもよい。
一度、そのあたりも、調査してみてほしい。
NASAに調査依頼するよりは、スカリーとモウルダーに依頼したほうがよいのでは?
これぞまさしく、X-File!
……というのは、少し書き過ぎということはわかっている。
先に「どこかのアホ教授」とも書いた。
しかしアホはアホ。
そういう常識では考えられないような実験を真に受け、それでもって、「急加速現象が証明できた」とした、米高速道路交通安全局(NHTSA)も、アホ。
まともに相手にするのもバカバカしいほど、常識をはずれている。
だから「アホ」と書いてしまう。
言葉は汚いが、私はそれ以外の言葉を思いつかない。
(はやし浩司 ラフード米運輸長官 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 トヨタ車の急加速問題 米高速道路交通安全局(NHTSA) NASA 放射線の影響 放射線と電子制御装置 宇宙線と電子制御装置 影響 TOYOTA ハイブリッド車)
●終わりに
ラフード米運輸長官は、こう言ったという。
「娘は決定的な保証を欲しがった。だから、(安全当局に)チェックした上で、『買うべきだ』と答えた」と。
それに応じて、日本の経団連は、「安全性のお墨付きをもらった」とはしゃいでいる。
が、これもおかしい。
日本の車、社会、経済に与えた影響は、計り知れない。
それをさておき、「お墨付き」とは?
どうして日本は、ここまで隷属するのか。
シッポを振るのか。
本来なら、「コノヤロー!」と激怒し、損害賠償を請求してよい事案である。
どうしてそれをしないのか?
つまりラフード米運輸長官のこの程度のリップサービスで、日本人のあのときの(怒り)をご破算にしてすませてはいけない。
またそれですむような話ではない。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
【結論】
「スーパー・マルチタースク人間」かどうかは、運転中だけのテストではわからない。
スーパー・マルチ・タースク人間と言えるためには、ほかの分野でのテストでも、それが証明されなければ、ならない。
自動車の運転のような、慣れによって自動化できる技術を尺度にし、それ以外の作業ができるからといって、マルチ人間ということにはならない。
従って、ユタ大学が行った、この実験とその結果は、「C」マーク。
「アメリカの大学」「教授」「大学がした実験」という言葉に、幻想をもってはいけない。
またそういう権威付けにだまされてはいけない。
(はやし浩司 David Gilbert South Illinois Fake はやし浩司 Jason Watson David Strayer 家庭教育 ニセ科学 エセ論文 偽論文 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 スーパーマルチ人間 スーパータスカー はやし浩司 マルチ型人間 シングルマルチ TOYOTA プリウス 論理の穴 論理の矛盾 論理学 はやし浩司 必要十分条件 はやし浩司 Super Tasker スーパータスク人間 スーパータスク型人間 はやし浩司 マルチ人間)2012/03/06まとめ
Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司
From Hiroshi Japan
About Me

- Name: Hiroshi-Hayashi
- Location: Hamamatsu-city, Japan
(Mr) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Religion and Chinese Medical Science.
Monday, March 05, 2012
Saturday, March 03, 2012
●映画『ヒューゴの不思議な発明』
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
夕方になって、ワイフが、こう言った。
「『ヒューゴの不思議な発明』を見に行かない?」と。
昨夜、『戦火の馬』を見たばかり。
「2晩つづけてかア?」と私が聞くと、「浜北へ行けばいい」と。
浜北(浜松市の北区)には、もうひとつ、別の東宝映画劇場がある。
「別に劇場の問題ではないのだがなア……」と思いながらも、それに従う。
ネットで調べると、午後6時5分、開演とある。
45分しかない……ということで、あわてて車に飛び乗る。
「どうしてわざわざ遠方の劇場へ行くのか?」と、
そんなことを考えながら、車を走らせる。
浜松市内にも、劇場がある。
市内だったら、20分もかからない。
で、劇場へ着いたのが、6時10分。
チケットを買っていると、カウンターの女性が、こう言った。
「今は、予告編です」と。
最近、予告編の時間が長い。
……長くなった。
1回に、5~6作は、見せる。
時間を計ってみたことがあるが、15~20分。
つまり6時5分といっても、実際、映画が始まるのは、6時25分ごろ。
あわてる必要はない。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●映画『ヒューゴの不思議な発明』
言葉の問題。
「ヒューゴの不思議な発明」というタイトルを見たら、あなたは何を、どう連想するだろうか?
たぶん、こう考えるにちがいない。
「ヒューゴという少年が作った、何か不思議な発明」と。
私も、実は、そう思っていた。
が、ヒューゴは、実際には何も発明していない。
古い機械人形をフィックスした(=直した)だけ。
つまりタイトルがおかしい。
そこで原作を調べてみると、「Hugo(ヒューゴ)」となっていた。
ただの「Hugo」だけ。
「ヒューゴの不思議な発明」というのは、「ヒューゴのもっていた」という意味。
つまり所有格。
主役というより、「柱」は、ベン・キングズレーが演ずるジョルジュ・メリエス。
映画の途中から、私は、同年齢ということもあって、ジョルジュ・メリエスのほうに強くひかれた。
ヒューゴというより、メリエスのほうに、感情移入をしてしまった。
過去の成功や栄華を懸命に忘れようとしている、メリエス。
そこに強く共感した。
子ども向けの子ども用映画ということであれば、ヒューゴということになる。
ヒューゴが主役。
そういう意味では、子ども向けのファンタジー映画ということになる。
星は文句なしの、5つ星。★★★★★。
『ネバー・エンディング・ストーリー』と並ぶ、名作と考えてよい。
また、ジョルジュ・メリエスについては、ほぼ実話ではないかと思われる。
ファンタジー映画の、まさに先駆者。
ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。
『ジョルジュ・メリエス
マリー=ジョルジュ=ジャン・メリエス(Marie Georges Jean Méliès、1861年11月8日1938年1月21日)は、フランスの映画製作者で、映画の創生期において様々な技術を開発した人物である。
パリ出身。
「世界初の職業映画監督」と言われている。
SFXの創始者で、多重露光やディゾルブ、ストップモーションの原始的なものも開発した。
もともとはマジシャンで劇場経営者であったが、1895年、同じくフランスのリュミエール兄弟による映画の公開を見て、映画製作に乗り出した。
彼の最も有名な作品は1902年の映画『月世界旅行』である。
題名の通り月へ探検に行く物語だが、1本の映画の中で複数のシーンがあり、物語が存在するという、当時としては画期的なものであった』(以上、ウィキペディア百科事典)と。
●1861-1938
ジョルジュ・メリエスは、77歳で没していることになる。
本当にパリ鋭気構内で、おもちゃ屋を営業していたかどうかは、知らない。
映画の中では、そのころヒューゴと知りあったことになる。
が、やはり気になるのは、「過去の成功や栄華を懸命に忘れようとしている、メリエス」という部分。
彼が手がけていたファンタジー映画は、第一次世界大戦とともに、闇に葬られる。
フィルム(=セルロイド)のほとんどは、再利用され、女性の靴のかかとになったという(映画)。
メリエス自身も、「映画の流行は一過性のもの」と思っていたらしい(映画)。
が、私は、その映画を見ながら、高校時代の恩師、平井孝一先生を思い出していた。
話がぐんと脱線するが、許してほしい。
●平井孝一先生
私が知りあったとき、平井孝一先生は、70歳を過ぎていた。
75歳前後ではなかったかと記憶している。
美濃市の南、山沿いにあった小さな集合住宅に住んでいた。
本当に小さな集合住宅で、2間ほどしかなかったと思う。
国語の元先生だった。
私は高校1年から2年まで、その先生から古文を学んだ。
週に1度、先生の家に行き、個人レッスンを受けた。
おかげでというか、当時は全国規模の古文だけの試験があり、私は全国で8位の成績を収めることができた。
(受験者数は、全国で30万人前後だったと記憶している。)
平井孝一先生は、もともと郷里の美濃市出身だった。
実家から150メートルもない、造り酒屋の身内の1人と聞いていた。
その平井先生と縁をつないでくれたのは、母だった。
母が、平井孝一先生に、家庭教師を頼んでくれた。
それはともかくも、ある日平井孝一先生は、1冊の本を私にくれた。
古語辞典だった。
それには、「平井孝一編」とあった。
私は驚いた。
今とちがい、当時は、「本」というだけで、たいへんな価値があった。
戦時中に印刷されたもので、見るからに疲れた感じの本だった。
が、本は本。
ズジリと重かった。
その平井孝一先生が、ある日、こう言った。
「私はね、岩国高校で、校長をしていたんですよ※」と。
岩国高校というのは、広島県岩国市にある高校である。
「ほら、錦帯橋(きんたいばし)という橋があるでしょ。学校は、あの橋のそばにありましたよ」と。
そのときはじめて、私は、平井孝一先生が、たいへんな人物であったことを知った。
小さな集合住宅に住んでいたから、それまではその程度の人としか思っていなかった。
が、先生は私に古文を教えながら、一言も、それ以外、自慢たらしいことは言わなかった。
自分の過去についても、私に話してくれたのは、2年間で、それだけ。
理由はわからない。
ともかくも、平井孝一先生という人は、そういう先生だった。
(注※……平井孝一先生の略歴・岩国高校ホームページ)
http://www.iwakuni-h.ysn21.jp/soumu/principal/principal.html
岩国高校のホームページによれば、平井孝一先生は、昭和18年4月から、昭和21年3月まで、岩国高校で校長をしていたことがわかる。
(昭和24年に、岩国中学から学制改革により、岩国高校となる。)
映画を見終ってから、家に着くまで、私は平井孝一先生のことを考えていた。
私が大学生のとき、平井孝一先生は亡くなった。
が、私は葬式にも行かなかった。
そういう負い目を感じていたので、私は、ワイフには、平井孝一先生の話はいっさい、しなかった。
●過去
メリエスにかぎらず、人には、それぞれ重い過去がある。
が、そうした過去が、正当に評価されるということは、まず、ない。
本当に、一部の、しかも本当に運がよかった人だけが、晩年になって、注目を集める。
再評価される。
平井孝一先生にしても、そうだ。
岩国高校は、江戸時代の(養老館)藩学校から始まる。
岩国高校のホームページによれば、明治13年創立とある。
たいへんな伝統校と考えてよい。
そんな高校の、元校長だった。
が、郷里の美濃市で、平井孝一先生を知っている人は、ほとんどいなかった。
元高校の教師だったということを知っている人もいなかっただろう。
私の記憶にまちがいがなければ、そのとき平井孝一先生には、子どもはいなかった。
先に書いた集合住宅にも、妻と2人だけで、静かに……というより、ひっそりと暮らしていた。
……どうしてだろう?
平井孝一先生には、子どもはいなかったのだろうか。
ふと今、大きな疑念が私の心の中で、渦を巻き始めた。
どうしてだろう?
●平井孝一先生
郷里の知人に電話をする。
その結果、平井孝一先生は、美濃市内の今廣酒造店の親類の人とわかった。
電話をすると、電話口の女性は、こう言った。
「平井孝一は、うちの親戚の者です」と。
私「昔、お世話になった、林という者です。平井先生の消息を聞きたくて電話しました」
女「はあ、ずいぶん前に亡くなりましたよ」
私「岩国高校で、校長をなさっておられた平井孝一先生です」
女「そうです。まちがいありません」
私「で、先生のことを調べ、原稿にしているのですが、……先生にはご家族の方がいらっしゃったのでしょうか」
女「いますよ。娘さんですが、今年、88歳になられますよ」と。
平井孝一先生には、娘さんがいた。
私が知りあったころには、すでに39歳だったとうことになる。
現在は、隣町の関市に、住んでいるという。
よかった!
娘さんが近くにいたということを聞いただけで、ポーッと心が暖かくなった。
ささやかだが、こうして今、平井孝一先生のことを、記録に残すことができる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 平井孝一 岩国高校 平井孝一 美濃市 今廣酒造 今廣酒店 広島県 岩国 岩国中学 はやし浩司 岩国高校 平井孝一)
●ジョルジュ・メリエス
もし『ヒューゴの不思議な発明』という映画を見なかったら……。
私はここでジョルジュ・メリエスという人を、もう死ぬまで知ることはなかっただろう。
ただ部分的には、記憶に残っていないわけではない。
あのガラス張りのスタジオにしてもそうだ。
何かの記録映画で、それを見たことがある。
あの『月世界旅行』にしても、何度か見たことがある。
ただ今回、『ヒューゴの不思議な発明』を見て、見方が180度、変わった。
若いころ、その映画を見たときには、何というチャチな映画だろうと思った。
そう思った記憶が、映画の内容より、しっかりと残っている。
が、今は、ちがう。
当時の人たちは、100%、あの映画を見て、肝を抜かれたにちがいない。
驚き、笑ったにちがいない。
この私だって、小学3年生のころ、テレビなるものを見て、仰天した記憶がある。
テレビにはカーテンがつけられ、みな、正座してそれを見た。
祖父はこう言った。
「浩司、こちらから向こうが見えるということは、向こうからもこちらが見えるということだ」と。
祖父は本気でそう信じていた。
だからカーテンをつけた。
正座した。
ついでに言えば、テレビの司会者などに向かって、本気であいさつをしていた。
いわんや、第一次大戦前のフランス。
当時の人の気持ちがよくわかる。
わかるだけに、「チャチ」という言葉は、吹き飛んでしまった。
『ヒューゴの不思議な発明』は、そういう点でも、すばらしい映画だった。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 ヒューゴの不思議な発明)
Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司
Friday, March 02, 2012
【煩悩(欲望)論と統合性の確立 by はやし浩司】
●暖かな3月(はやし浩司 2012-03-03)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
やっと暖かくなった。
冬の冷気を感じない。
「春だなア~」と。
ところで昨夜、ワイフと生徒たちを連れて、映画を見に行ってきた。
『戦火の馬(War Horse)』。
一頭の、賢い馬の話。
先月死んだ、犬のハナが画面にダブり、ポロポロ泣いた。
ポインター種の犬は、馬そっくり。
走り方も、馬そっくり。
目の動かし方まで、馬そっくり。
そんなわけで、星は4つの★★★★。
よかった!
ただタイトルの『戦火の馬』は、おおげさ。
『マイ・ホース(My Horse)』でもよかったのでは?
今週は、もう1本、『ヒューゴの不思議な発明』がある。
すでに公開されているが、こちらのほうは、あわてて見ない。
前評判がすばらしいだけに、ゆっくりと時間をかけ、楽しみたい。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●3月3日
このところ、午前9時起きがつづいている。
何かにつけ、夜更かしをする。
昨夜も床に就いたのが、午前1時。
我ら不良老人には、時刻はない。
眠くなったら、寝る。
起きたくなったら、起きる。
が、理由がないわけではない。
目下、ダイエット中。
現在67キロの、4キロ、オーバー。
食事の量を半分に減らし、運動量を倍にした。
そのため慢性的なガス欠状態。
何をしても、力が入らない。
とくに床から起きあがるのが、つらい。
それで午前9時起き。
が、熟睡感は、あまりない。
●アクセント
今日の予定は、とくになし。
先ほど、軽い朝食。
「何かしたいか?」とワイフに聞くと、「まだね……」と。
こういうときは、来週の教材作りをするのがよい。
(いつもなら、そうしている。)
が、今日は、こうしてパソコンの前に、ずっと座っていたい。
指の動きも軽やか。
頭もスッキリ。
昨日まで、どこか風邪ぽっかったが、その症状も消えた。
(「風邪っぽい」というから、「風邪っぽかった」と書いた。
この日本語は正しいのか?)
ところで昨日、幼児教室で、「くじ」の話をした。
確率を教えるため。
で、そのときのこと。
子どもたちが、「くじ」と、「く」のところにアクセントをつけて言うのを知った。
私は、ずっと、「くじ」と、「じ」のところにアクセントつけて言っていた。
この浜松では、多くの言葉で、アクセントの位置がちがう。
たとえば「橋」「箸」「端」など。
どちらが正しいというわけではないが、ときどき戸惑うことがある。
もちろんワイフは、「あなたのアクセントは、おかしい」と言う。
私は、「浜松のアクセントは、めちゃめちゃ」と言う。
ワイフは、浜松生まれの、浜松育ち。
私は岐阜県の美濃市生まれ。
興味のある人は、浜松へ来てみればよい。
「橋」「箸」「端」を、浜松の人たちがどう発音するか、聞いてみればよい。
みな、首をかしげるはず。
●また映画
たった今、ワイフがお茶を届けてくれた。
こう言った。
「午後から、映画を見に行こう」と。
「またア~?」と言うと、「そう!」と。
「浜北のほうでもいい……」と。
浜北(浜松の北)にも、東宝映画劇場がある。
そこへドライブがてらに行こう、と。
若いときからワイフの行動力には、頭がさがる。
アドレナリンの分泌が、私より盛ん。
体温も、私より高い。
同じものを食べても、ワイフは、太らない。
私は太る。
つまりその分だけ、行動派。
●プレーボーイ
さて、本題。
「プレーボーイ」と呼ばれる、男たちがいる。
(反対に「プレーガール」と呼ばれる、女たちもいる。)
このプレーボーイ、目的とする「女」が現れると、特異な行動を始める。
献身的。
とにかく献身的。
一方的に相手に仕える。
ときに女の部屋にあがりこんで、掃除までしてやる。
料理までしてやる。
相手の「体」をものにするまで、何でもする。
が、一度モノにすると、相手から急速に興味を失う。
その行動パターンは、「買い物依存症」のそれと、どこか似ている。
「相手の女性の肉体が欲しいから、欲しい」。
それだけの理由。
要するに、自分の欲望を満足させる。
それが目標。
一方、女性にも、「プレーガール」がいる。
昔は「八方美人」と呼んだ。
どちらにせよ、最近の傾向としては、老いも若きも、欲望にブレーキをかけない。
恋愛至上主義もそのひとつ。
恋愛したとたん、それがすべて。
自分の心にブレーキをかけない。
そのまま最後まで、突っ走ってしまう。
もっとも今の若い人たちに、それを説いても意味はない。
また私たちの時代の話をしても、理解できない。
私も学生時代、何人かの女性と恋愛をした。
しかし「収入がない」「生活費が用意できない」「親の了解がない」などの理由で別れた。
「しっかりと自活できてから」というのが、結婚の大前提になっていた。
が、今はちがう。
そのまま突っ走ってしまう。
悪しきアメリカ文化の影響である。
それがわからなければ、映画『タイタニック』を見ればよい。
若い人たちは、ああいうのを見て、「愛」と錯覚している。
それがあるべき人間の姿と思い込んでいる。
人間がもっとも大切にすべきものと、誤解している。
中身といえば、子孫保存本能。
が、そんなことは、そこらのイヌやネコでもしている。
子孫保存のための本能(種族保存本能とは区別する※後述)に、振り回されているだけ。
結果、離婚率も、目下上昇中。
婚姻届数を3とすると、離婚届数は1(全国、役所の届け数平均※)。
(注※)
『……参考値として、「離婚件数を結婚件数で割った値」をグラフ化する。
これは「結婚件数に対し離婚件数がどれだけ多いか」を意味し、この値が仮に1を超えれば、その年の結婚件数より離婚件数が多かったことを意味する。
ちなみに、2001~2007年は、おおむね0・35前後となっている』(Garbagenews.com)。
(詳しくは、http://www.garbagenews.net/archives/1219043.html)
ただし生涯離婚率は、現在、0・2%前後。
現在、1000組の夫婦がいるとすると、その年に離婚するのは、2組ということになる。
●種族保存本能と子孫保存本能
種族保存本能と子孫保存本能は、区別して考える。
いろいろな説があるが、私は、そう解釈している。
種族保存本能というのは、その種族の中でも、最高品種のものを残そうという本能。
たとえば動物の世界では、もっとも力のあるオスが、多くのメスを従える。
そのために、力のあるオスどうしが、ボスの座を獲得するため、死闘を繰り返す。
そういう動物は多い。
ボスになれば、多くのメスを自分のモノにすることができる。
子孫保存本能というのは、要するに生殖本能のこと。
人間は一夫一妻制をとることにより、種族保存本能は、「個」からは切り離す。
切り離さないと、「個」である自分は、結婚できないということになる。
「私は劣等な人間です。子どもを作らないほうが、種の保存のためには、ふさわしい」と。
……とまあ、そんなふうに考える人はいない。
またそんなふうに考えたら、私など、イのいちばんに、だれとも結婚できなかっただろう。
顔はブサイク。
足も短い。
精神的にもガタガタ。
頭も悪い。
が、どうにかこうにか、結婚だけはできた。
●欲望
わかりやすく言えば、欲望に歯止めをかけることができなくなった。
それが現代人の特質ということになる。
硬い話になるが、仏教では、その欲望を強く戒めている。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
「煩悩(ぼんのう」については、
たびたび書いてきた。
つぎの原稿は、2003年3月の日付に
なっている。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●涅槃(ねはん)(2003年3月記)
仏教には、「涅槃(ねはん)」という言葉がある。
「煩悩(ぼんのう)を滅して、苦がなくなった究極の悟りの境地」(日本語大辞典)という意味。
煩悩というのは、「衆生(しゅじょう)の心身を悩ませ、悟りの妨げとなる心の働き」(同)をいう。
わかりやすく言えば、人間の欲望のこと。
仏教では、「貪(どん)、瞋(しん)、痴(ち)」の三つの弊害(これを三毒)をいう。
で、この煩悩を頭から、悪と決めてはいけない。
たとえば性欲にしても、それがあるから種族の保存ができる。なかったら、人類は、とっくの昔に滅んでいたことになる。
そこで仏教では、「煩悩は燃やしつくせ」と教える。
つまり燃やして燃やして、燃やしつくし、その結果として、「涅槃の境地」に達せよ、と。
こういうむずかしい漢字が並ぶと、読むだけでもたいへんだが、要するに、若いときは、したいことを、思う存分しろということ。
Sックスにしても、恋人や夫婦の間で、やってやってやりまくる。
そしてその結果として、そのつまらなさを、悟ることができる。
そのつまらなさから、脱却することができる。
そう言えば、子どもの世界でも、子どものころ、非行などのサブカルチャ(下位文化)を経験した子どもほど、おとなになってから常識豊かな子どもになることが知られている。
つまりワルで育った子どもほど、あとあと、すばらしい人間になるということ。
反対に、優等生で育った子どもほど、あとあと何かにつけて、問題を引き起こす。
かえって常識ハズレになり、社会的な不適応を起こすこともある。
精神的な未熟性や、不全性が、その子ども(人)の心をゆがめることもある。
だからといって、子どもの非行を奨励するわけではない。
が、こうした一歩、退いた視点が、子どもを、心豊かな人間に育てる。
「勉強」も大切だが、勉強そのものは、子どもを伸ばさない。
子どもを伸ばすのは、「学ぶ心」、そして「ものごとに挑戦していく前向きな姿勢」である。
勉強ができる、できないは、あくまでも、その結果でしかない。
さて、話をもどす。煩悩だからといって、頭から否定してはいけない。
煩悩だろうが、なんだろうが、思う存分、したいことをすればよい。
して、して、しまくる。
そうすれば、やがてその空しさがわかる。
わかれば、その煩悩と決別することができる。
仏教でいう「涅槃の境地」は無理だとしても、ほぼそれに近い精神状態になるかもしれない。
話は、ぐんと現実的になるが、よく子どもたちが、私にこう聞く。
「先生も、エロビデオを見るのか?」と。
そういうとき私は、こう答えるようにしている。
「君たちのお父さんと同じだよ。だからそういうことは、君たちのお父さんに聞きな」と。
そしてしばらくしたあと、こうつけ加える。
「もう、見飽きたけどね……」と。
これも、いわば、涅槃の境地の一つということになるのかもしれない。
(030404)
【追記】
煩悩を燃やしつくすといっても、燃えつき症候群は好ましくない。
……ですね。
そうそう、それにしても、Sケベ・サイトの多いこと、多いこと!
そういうところが発行するスケベ・マガジンなどは、どれも発行部数が、数万部もあるというから、驚きます。
私のマガジンは、やっと合計で、八三〇部程度。
何ともなさけない感じがしないでもありません。
しかしやがてこれも一巡すれば、私の発行するようなマガジンの読者も、少しはふえるかもしれません。
どうせああいうのは、「無」のマガジン。
読者も、それでは満足しなくなるはず。
必ず「心」を求めるようになるはず。
そういうときがくるのを信じて、がんばるしかない。……ですね。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
先の原稿を書いてから、もう9年になる。
最近、書いた原稿と比較してみる。
つぎの原稿の日付は、2007年7月に
なっている。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●煩悩(ぼんのう)
+++++++++++++++
仏教では、煩悩(ぼんのう)に
2つあると教える。
ひとつは、知性の煩悩。
もうひとつは、感情の煩悩。
そしてその根本はといえば、
「無明」と「愛欲」であると
教える(仏教聖典)。
+++++++++++++++
仏教では、煩悩(ぼんのう)に2つあると教える。
ひとつは、知性の煩悩。
もうひとつは、感情の煩悩。
そしてその根本はといえば、「無明」と「愛欲」であると教える(仏教聖典)。
ここでいう「無明」は、「無知」という意味である。
しかし無知といっても、「知識のなさ」を言うのではない。
「ものの道理をわきまえないこと」(「仏教聖典」)をいう。
この煩悩に支配されると、人は、「むさぼり、怒り、愚かになり、邪見をもち、人を恨んだり、ねたんだり、さらには、へつらったり、たぶらかしたり、おごったり、あなどったり、ふまじめになったりする」(「仏教聖典」)という。
つまり、自分を見失ってしまう。
この中でも、仏教では、とくに(1)むさぼり、(2)怒り(瞋り)、(3)愚かさを、「世の3つの火」と位置づける。
これらの「火」が、自ら善良な心を、焼いて殺してしまうという。
そういう例は、多い。
「むさぼり」(仏教聖典・仏教伝道協会編)とは、私たちが日常的に使う「むさぼり」という意味のことか。
わかりやすく言えば、欲望のおもむくまま、貪欲になることをいう。
貪欲な人は、たしかに見苦しい。
ある女性は、このところ数日おきに、病院にいる義父を見舞っている。
義父を思いやる、やさしい心からそうしているのではない。
その財産が目的である。
義母がいるが、体も弱く、このところ思考力もかなり低下してきた。
そんな義母でも、「見舞には来なくていい」とこぼしている。
その女性が義父を見舞うたびに、義父は興奮状態になってしまう。
そのあと様子がおかしくなるという。
しかしその女性は、見舞いをやめる気配はない。
これも(むさぼり)のひとつと考えてよい。
その女性はまさに、義父の心を、むさぼっている。
つぎに怒り。
仏教聖典のほうでは、(瞋り)となっている。
私は勝手に「怒り」としたが、研究者がこの文を見たら、吹きだすかもしれない。
仏教でいう(瞋り)、つまり(怒り)というのは、感情のおもむくまま、腹を立てたり、どなったり、暴れたりすることをいう。
ただ、(怒り)そのものを、悪いと決めつけて考えることはできない。
たとえば今、私は、社会保険庁のずさんな事務処理に、怒りを感じている。
K国の金xxにも、怒りを感じている。
元公安調査庁の長官による不正疑惑にも、怒りを感じている。
さらには、防衛大臣の失言にも、怒りを感じている。
その(怒り)が、こうしてものを書く、原動力にもなっている。
つまり(怒り)が正義と結びついていれば、(怒り)も善であり、そうでなければ、そうでない。
3つ目に、(愚かさ)。愚かであるということは、それ自体、罪である。
しかし先にも書いたように、「知識がないこと」を、愚かというのではない。
ものの道理をわきまえないことを、(愚か)という。
では(道理)とは何か。
現代風に言えば、(人格の完成度)をさす。
人格の完成度の高い人を、「道理をわきまえている人」という。
他者との共鳴性が高く、良好な人間関係があり、より利他的な人を、人格の完成度の高い人という。
その道理を身につけるためには、自分で考えるしかない。
考えて、考えて、考えぬく。
パスカルも言っているように、人間は考えるから、人間なのである。
中に、「私はものごとを深く考えない」「考えることが嫌い」「考えるのはめんどう」と豪語(?)する人がいる。
しかしそういう人は、自らを愚かな人間と、公言しているようなもの。
恥ずべきことではあっても、自慢すべきようなことではない。
で、これらの3つは、「火」となって、人間の世界を、ときに焼き尽くすこともあるという。
「おのれを焼くばかりでなく、他をも苦しめ、人を、身(しん)、口(く)、意(い)の3つの悪い行為に導くことになる」(「仏教聖典」)と。
つまりその人だけの問題では、すまないということ。
が、これにもう一言、つけ足させてもらうなら、こういうことになる。
悪いことをしないから、善人というわけではない。
よいことをするから、善人というわけでもない。
私たちが善人になるためには、悪と、積極的に戦っていかなければならない。
悪と積極的に戦ってこそ、私たちは、善人になれる。
またそういう人を、善人という。
話が脱線したが、私たちは、その煩悩のかたまりと言ってもよい。
この瞬間においてすら、その煩悩が、体中で、渦を巻いている。
「どうしたらいいものやら?」と考えたところで、この話は、おしまい。
私自身も、その煩悩の虜(とりこ)になり、いつも道に迷ってばかりいる。
(2007年7月記)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 煩悩論 パーリ 仏教聖典 はやし浩司 煩悩 煩悩論 欲望論)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●進歩?
これら2つの原稿を読み比べてみる。
変化を知る。
ともの「私」だが、中身が微妙に異なる。
同時に、こうも考える。
「私は進歩したか?」と。
答は、残念ながら「NO!」。
むしろ退化した。
このところあまり勉強しなくなった。
本(仏教典)も、読まなくなった。
たとえばどこかのホテルに泊まる。
大きなホテルだと、たいていどこにも、聖書や仏教典が置いてある。
若いころは、それを読んだ。
感動した。
が、今は、目も通さない。
もちろん読んでも、感動しない。
理由の第一は、欲望の火が弱くなったこと。
「~~したい」とか、「~~がほしい」と思うことが少なくなった。
生命力が弱くなった?
生活力が弱くなった?
もっとわかりやすく言えば、巷(ちまた)の雑事など、どうでもよくなってしまった。
とくに悟りの境地に、(そんなものは、あるはずもないが)、近づいたというわけではない。
「めんどう」という言葉のほうが、正確かもしれない。
「どうぞ、ご勝手に!」とか、そういうふうに思うことも多い。
とくに醜い権力闘争を見聞きしたりすると、そう思う。
が、これではいけない。
「これではいけない」とは、ワイフの言葉だが、これではいけない。
「あなたが書くのをやめたら、だれが書くのよ!」と。
都会に住む(もの書き)たちは、それぞれに複雑にからみあっている。
この世界には、「ブラックリスト」なるものがある。
たとえば「週刊X誌」。
一度、悪口を書いたら、仕事は回ってこない。
「S雑誌社」にしても、そうだ。
その子会社、あるいは関連会社からも、仕事は回ってこない。
テレビ局をはじめとする、マスコミの世界は、そうしたシンジゲートで成り立っている。
さらに巧妙なのが、宗教団体。
利権団体。
批判本を出版したりすると、出版社自体を、抱き込んでしまう。
まず「はやし浩司」で検索する。
そこにズラリと、「要注意人物」「警戒人物」という文字が並ぶ。
その時点で、仕事はストップ。
こうして都会という中央集権社会は、YES・MANだけの世界になる。
だからワイフは、こう言う。
「あなたが書くのをやめたら、だれが書くのよ!」と。
話が脱線したが、私は自由。
だれにも相手にされないが、こうして自由にものを書くことができる。
だれにも遠慮しない。
だれにも媚(こび)を売らない。
●無の概念
話を戻す。
あのサルトルは、最後に「無の概念」を説いた。
それによって、サルトルは、死の恐怖から、自分を解放した。
つまり自己の限界である「死」を、乗り越えた。
その第一の条件が、欲望からの解放ということになる。
「私の財産」「私の名誉」「私の地位」「私の……」とつづくかぎり、人は迷う。
苦しむ。
「死」を乗り越えることはできない。
では、どうすればよいのか。
そのヒントが、『統合性の確立』ということになる。
(すべきこと)を発見し、その(すべきこと)をする。
ただし条件がある。
無私、無欲でなければならない。
功利、打算が混入したとたん、統合性の確立は霧散する。
煩悩論の最後に、『統合性の確立』について書いた原稿を探してみる。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
『統合性の確立』については、たびたび
書いてきた。
「はやし浩司 統合性の確立」で検索
してみたら、4000件もヒットした。
2009年2月に書いた原稿が
わかりやすいので、それを紹介する。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●統合性の確立
++++++++++++++++++++++++
今日の成果。
私とワイフは、ずっとトップランナーだった。
諏訪湖の湖畔を歩くとき、いつもうしろを見ながら歩いた。
こんなところで順位を競っても意味はない。
わかっているが、私たちは、それを目標にしている。
週に2、3度、10キロ近く歩いているのも、そのため。
それぞれの人には、それぞれの目的がある。
観光を楽しみたい人。
友だちとおしゃべりを楽しみたい人。
ほかにも、いろいろあるだろう。
しかし私たちは、運動のため。
そのためには、タラタラと歩いていたのでは、意味がない。
サクサクと歩く。
汗をかく。
有酸素運動をする。
そのために歩く。
目標は、トップ。
目的地、一番乗り。
++++++++++++++++++++++++++++
●帰りのバスの中で
それをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。
「あなたの人生の縮図みたいね」と。
いつもトップだったというわけではないが、しかしその緊張感は忘れなかった。
先手、先手で、人の前に立つ。
それは私のように一匹狼で生きていく人間にとっては、鉄則のようなもの。
二番手になったとたん、押しつぶされてしまう。
が、目的地に着いたら、そこで遊ぶ。
時間にも余裕がある。
その周辺の店をのぞいたりする。
これもワイフに言わせると、私の人生の縮図みたいということになる。
私はいつも、まず(すべきこと)を先にする。
それが終わったら、自分の(したいこと)をする。
その余裕がないときは、がまんする。
つまり(すべきこと)が残っているときは、(したいこと)をがまんする。
いつもこの鉄則を守っているというわけではないが……。
●60歳の統合性
(やるべきこと)と、(したいこと)は、基本的にちがう。
(やるべきこと)には、常に、ある種の苦痛がともなう。
できるなら、やらないですまそうとする。
そういうブレーキも働く。
人間は本来、怠けもの。
が、その(苦痛)を乗りこえなければ、(やるべきこと)は、できない。
エリクソンは、人生の正午と言われる満40歳前後から、(やるべきこと)の基礎を作れというようなことを説いている。
(やるべきこと)を見つけ、その基礎固めをしていく。
それが5年とか10年とかいう年月を経て、その人の中で熟成していく。
何度も書くが、「60歳になりました。明日からゴビの砂漠でヤナギの木を植える」というわけにはいかない。
そんな取って付けたようなことをしても、身につかない。
(やるべきこと)を見つけ、現実にそれを実行していく。
それを「統合性の確立」という。
●統合性の失敗
私も含めてということになるかもしれないが、こうした統合性の確立に失敗している人は、多い。
60歳という、年齢の節目に立ってみると、それがよくわかる。
明日は今日と同じ。
来月は今月と同じ。
来年は今年と同じ、と。
家ですることといえば、テレビを見て、雑誌を読んで、あとは眠るだけ。
たまの休みには、野球中継。
雨の日は、パチンコ。
読むのは、スポーツ新聞だけ。
体のためと称して、畑を借りて家庭菜園。
ときどき旅行をしたり、孫の世話をする。
楽しむことイコール、老後のあるべき姿と考えている人も多い。
しかしそれこそ、まさに死の待合室に入ったようなもの。
1か月を1日にして、生きるだけ。
1年を、1か月にして生きるだけ。
そんな人生に、どれほどの意味があるというのか(失礼!)。
●今、40歳前後の方へ、
エリクソンは40歳と言ったが、40歳では遅いかもしれない。
30歳でもよい。
20歳でもよい。
将来に向けて、統合性の確立のため、今からその下地を作っていく。
それは何も老後のためだけではない。
いつか「私は自分の人生を生きた」という実感を、
自分のものにするため。
もしこの統合性の確立に失敗すると、老後そのものがみじめになるだけではない。
自分が生きてきたという証(あかし)、さらには足跡まで、無駄になってしまう。
人生も晩年になって、「私は何をしてきたのだ」と思うことほど、苦しいことはない。
(今の私もそうだが……。)
自分の人生を振り返っても、そこには何もない。
いや、いつの間にか、自分に替わって、別の人間が、それをしている。
私がしたことをしている。
私より、ずっとじょうずにしている。
それはそのまま自己否定へとつながってしまう。
●無私無欲
(やるべきこと)は、無私無欲でなければならない。
金銭的な利益、名誉や地位のためというのであれば、それは(やるべきこと)ではない。
損得勘定をしない。
仮にその結果として、金銭的な利益を得たり、名誉や地位がもたらされたとしても、それはあくまでも結果。
結果であるから、一喜一憂することもない。
淡々とそれを迎える。
仕事で忙しい人もいるだろう。
家事で忙しい人もいるだろう。
子育てで忙しい人もいるだろう。
しかしそういう間でも、統合性のための基礎づくりを忘れてはいけない。
それは長くて苦しい道かもしれない。
先にも書いたように、できればやりたくないことかもしれない。
しかしそれでもつづける。
それがここでいう統合性につながる。
●燃える
一方、70歳を過ぎても若々しい人というのは、たしかにいる。
私の義兄もその1人。
先週訪ねたら、そこにピカピカのベンツが置いてあった。
義兄のベンツは、たしか中古だったはず。
しかし、ピカピカ。
「どうしたの?」と聞いたら、「塗装しなおした」と。
「メッキは磨きなおした。パッチ(ゴム部)は、新品に取り替えた。
シートは、張り替えてもらった」と。
そして先月(08年12月)は、長野県の奥まで、奥さん(=ワイフの姉)とドライブしてきた、と。
生き様が前向きというか、若々しい。
ゴルフのクラブにしても、自分で設計して、それを業者に作らせたりしている。
趣味はバイクだが、40年前、50年前のバイクを拾ってきては、それを修理して走らせたりしている。
「夢は、いつかバイクの展示場をかねた喫茶店を開くこと」と。
年齢は、正確には、今年76歳になる。
そういう義兄と話していると、こちらまで若返る。
話がはずむ。
●あなたの未来
あなたの未来を知りたかったら、あなたの両親を見ることだ。
遺伝子学的にも、満20歳くらいまでは、親子といっても、様子は大きくちがう。
が、20歳まで。
満20歳を過ぎると、親子は急速に似てくる。
似てくるというよりは、実際には、同一化する。
子どもが親に似るわけではない。
同一化する。
子どもである(あなたは)は、「私は親とはちがう」「親のようにはならない」と思っているかもしれない。
が、それは甘い。
世の中には、「進化論」というものもあるが、それは100代とか、1000代単位で起こることであって、あなたの代の1代や2代くらいでは、起こるはずもない。
40代を過ぎれば、あなたもあなたの両親も同じ。
50代を過ぎれば、さらにあなたもあなたの両親も同じ。
こんな例がある。
●反面教師は、未来のあなた
ある女性は若いころから、自分の母親を批判していた。
「私の母は、ずるい」「私の母は、世間体ばかり気にしている」と。
しかしその母親がなくなってしばらくすると、今度はその女性が母親そっくりの人間になっていた。
こういう例は、いくらでもある。
こうした世代連鎖は、どうすれば防ぐことができるか。
そこで登場するのが、「精進(しょうじん)」ということになる。
日々の絶え間ない研さんのみによって、こうした世代連鎖を断ち切ることができる。
たとえばあなたの父親が、インチキな人だったとしよう。
女遊びは、当たり前。
親戚中から借金を重ね、そのつどそれを踏み倒す。
親をだます子はいるが、あなたの父親は、あなたという子をだます。
あなたはそういう父親を批判する。
父親を反面教師にしながら、自分はそうしないと心に誓う。
「私は父親とはちがう」と言う。
しかし反面教師のこわいところは、ここから始まる。
反面教師とするのは勝手でも、別のところで別の人格を作りあげないと、結局は、今度はあなたがその反面教師そっくりの人間になる。
理由は明白。
あなたはその反面教師しか、知らないからである。
親子のばあいは、さらによく似る。
自分ではそれはわからないが、他人から見ると、それがわかる。
●私のほうが、マシ?
しかしこんなことも言える
たぶんに自己弁解がましいが、悩んだり苦しんだりするところに、実は価値があるのだ、と。
統合性の一致にしても、ほとんどの人は、それが何であるかもわからず、悶々とした日々を送っている。
しかしその(悶々とすること)自体に価値がある。
というのも、少し前、そういうことをまったく考えない人に出会った。
そのとき私が感じた(落差)というか、(驚き)には、格別なものがあった。
私とて、統合性の確立ができたわけではない。
いまだに、悶々としている。
懸命にさがそうとしている。
が、その男性は、ノー天気というか、統合性の「ト」の字も考えていなかった。
のんき?
無神経?
無頓着?
楽天的?
享楽的?
せつな的?
しばらくいっしょに話したが、打ち返ってくるものが、何もない。
同じように、人生を60年近く生きてきたはずなのに、何もない。
本当に、何もない。
そこで私が、「退職後は何をしているの?」と聞くと、「マンションの守衛をしている」と。
マンションの守衛が悪いというのではない。
で、「休みには何をしているの?」と聞くと、先に書いたような答が返ってきた。
「野球中継があるときは、テレビでそれを見て過ごす」
「休みには魚釣り。雨が降ればパチンコ」と。
本は読まない。
読むのはスポーツ新聞だけ。
音楽は聴かない。
映画も見ない。
あとは孫ができたとかで、ときどき孫の世話をしている、と。
統合性の確立どころか、その入り口にも立っていない(失礼!)。
だからこう思った。
まだ、私のほうが、マシ、と。
●やってくる老後
老後は、確実にやってくる。
あっという間にやってくる。
しかも老後というのは、意外に長い。
60歳から始まったとしても、20年近くある。
幼児が成人するまでの年月に等しい。
しかしこれは、「どう過ごすか」という問題ではない。
「やるべきことをやらないと、死ぬこともできない」という問題である。
現実に私もその年齢になり、老後の入り口に立って、その恐ろしさを実感しつつある。
仕事がなくなる恐怖。
役目がなくなる恐怖。
だれにも相手にされなくなる恐怖。
こうした恐怖は、そのまま自分をどんどんと小さくしていく。
そんな状態で、この先、20年を、どうやって生きていったらよいのか。
またそんな状態で、生きていかれるはずもない。
まず手始めに、仕事を失ってはいけない。
どんな小さな仕事でも、それにしがみついていく。
それに町内の仕事にしても、それができるなら、どんどんとしていく。
みなの役に立つ。
みなから、役に立つ人間として評価される。
●私の経験
これは私の経験だが、私は今にしてみると、1円もお金をもらわなかったのが、うれしい。
40代~55歳くらいまでは、電話相談に明け暮れた。
それ以後は、無料でマガジンを出したり、無料で相談に応じている。
そのときは、「どうしてこんなバカなことをしているのだ」という思いとの闘いでもあった。
しかしそれが今、少しずつだが、光り始めている。
もしあのとき、そして今、お金を受け取っていたら、私のささやかな統合性は、その時点で霧散していただろう。
もちろん今していることが、(私のすべきこと)とは、思っていない。
しかし私が今、住んでいる世界では、それしか思いつかない。
それこそ「では、これからゴビの砂漠に行って、ヤナギの木を植えてきます」というようなことは、私にはできない。
だいたい、その下地がない。
だから、やるしかない。
その先に何があるかわからないが、ともかくも、やるしかない。
●最後に……
むずかしい話はさておき、朝起きたとき、(やるべきこと)がそこにあるだけでも、うれしい。
感謝しなければならない。
その(やるべきこと)が、あなたには、あるだろうか。
あればよし。
そうでなければ、あとは自分の心と体に、ムチを打つしかない。
「楽をしたい」という思いはだれにでもある。
が、その(思い)に敗れたとたん、あなたは一気に、孤独の世界へと落ちていく。
……ということで、明日からまた新しい週が始まる。
「がんばるぞ」と自分に掛け声をかけて、この話は、おしまい。
どうであるにせよ、私は生きていかねばならない。
今までもそうして生きてきたし、今も生きている。
これからもそうして生きていくだろう。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
老後の生きがい 老後の統合性 統合性の一致 やるべきこと 老後にやるべきこと 老
後の生き甲斐)
Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司
【少子化の中で、スポイルされる子どもたち】
【ドラ息子、ドラ娘論byはやし浩司】
●甘やかしと、きびしさ
+++++++++++++
極端な甘やかしと、極端なきびしさ。
一貫性のない親の育児姿勢が、子どもを
ドラ息子、ドラ娘にする。
甘やかしにより、規範そのものが崩れる。
一方、アンバランスなきびしさが、子どもを反抗的にする。
わがままで、自分勝手。
思うようにことが運ばないと、
キレる……。
+++++++++++++
一方で甘やかす。
子どもに気を使う。
過干渉というよりは、子どもの機嫌を取る。
『子どもをだめにするためには、子どものほしがるものを何でも与えよ』という。
しかしこのタイプの親は、『子どもがほしがる前に、何でも与えてしまう』。
しかしその甘やかしに手を焼き、ときとして、きびしく接する。
はじめは、小さなすき間だが、それが繰りかえされるうち、やがてすき間が広がる。
(甘やかす)→(ますますきびしく接する)→(甘やかす)の悪循環の中で、親の手に負えなくなる。
一貫性のない親の育児姿勢が、子どもをして、ドラ息子、ドラ娘にする。
このタイプの親には、共通点がある。
(1) 溺愛性(生活のすべてが、子ども中心)
(2) 育児観の欠落(どういう子どもに育てたいのか、その教育観が希薄)
(3) 飽食とぜいたく(どちらかというと、余裕のある裕福な家庭)
(4) 視野が狭い(目先のことしか、考えていない)
(5) 見栄っ張り(世間体や外見を重んじる)
(6) 代償的過保護(子どもを自分の思いどおりにしたい)
(7) 親自身も、ドラ息子、ドラ娘的(自分がドラ息子、ドラ娘的であることに気づかない)
これらの特徴と併せて、
(8)一貫性がない。
そのときの気分で、子どもに甘く接したり、きびしく接したりする。
A君(6歳、架空の子ども)を例にあげて、考えてみよう。
A君の父親は、もの静かな人だった。
一方、母親は派手好き。
裕福な家庭で、生まれ育った。
ほしいものは、何でも買い与えられた。
A君は、生まれたときから、両親の愛情に恵まれた。
近くに祖父母もいて、A君の世話をした。
A君は、まさに「蝶よ、花よ」と育てられた。
母親は、A君に楽をさせること、楽しい思いをさせることが、親の愛の証(あかし)と考えていた。
A君は、その年齢になっても、家の手伝いは、ほとんどしなかった。
いや、するにはしたが、とても手伝いとは言えないような手伝いをしただけで、みなが、おおげさに喜んでみせたり、ほめたりした。
「ほら、Aが、クツを並べた!」「ほら、Aが、花に水をやった」と。
が、やがて、A君のわがままが目立つようになった。
あと片づけをしない、ほしいものが手に入らないと、怒りを露骨に表現するなど。
母親は、そのつど、A君をはげしく叱った。
A君は、それに泣いて抗議した。
A君は、幼稚園へ入る前から、バイオリン教室、水泳教室、体操教室に通った。
夫の収入だけでは足りなかった。
A君の母親は、実家の両親から、毎月、5~8万円程度の援助を受けていた。
夫には内緒、ということだった。
A君は、そこそこに伸びたが、しかしそれほど力のある子どもではなかった。
そのためA君の母親は、ますますA君の教育にのめりこんでいった。
そのころすでにA君は、オーバーヒート気味だったが、母親は、それに気づかなかった。
「やればできるはず」式に、A君に、いろいろさせた。
A君がだれの目にもドラ息子とわかるようになったのは、年長児になったころである。
好き嫌いがはげしく、先にも書いたように、自分勝手でわがまま。
簡単なゲームをさせても、ルールを守らなかった。
そのゲームで負けると、大泣きしたり、あるいはまわりの人に乱暴を繰りかえしたりした。
人格の完成度が遅れた。
他人の心が理解できない。
自己中心的。
ほかの子どもたちとの協調性に欠けた。
幼稚園の先生が何か仕事を頼んでも、A君は、機嫌のよいときはそれをしたが、そうでないときは、いろいろ口実を並べて、それをしなかった。
小学2、3年生になるころには、母親でも、手に負えなくなった。
そのころになると、母親にも乱暴を繰りかえすようになった。
母親を蹴る、殴るは、日常茶飯事。
ものを投げつけることも重なった。
が、A君は、自分では、何もしようとしなかった。
学校の宿題をするだけで、精一杯。その宿題すら、母親に、手伝ってしてもらっていた。
……という例は、多い。
今では、10人のうち、何人かがそうであると言ってよいほど、多い。
が、何よりも悲劇的なのは、そういう子どもでありながらも、母親が、それに気づくことがないということ。
『溺愛は、親を盲目にする』。
A君の母親は、ますます献身的に(?)、A君に仕えた。
こういうとき母親がそれに気づき、私のようなものに相談でもあれば、私もそれなりに対処できる。
アドバイスもできる。
しかしそれに気づいていない親に向かって、「あなたのお子さんには、問題があります」とは、現実には、言えない。
言ったところで、そのリズム、つまり子育てのリズムを変えることは、不可能。
親にとっても、容易なことではない。
そのリズムは、子どもを妊娠したときから、はじまっている。
そんなわけで、わかっていても、知らぬフリをする。
が、やがて行き着くところまで、行き着く。
親自身が、袋小路に入り、にっちもさっちも行かなくなる。
が、そのときでも、子どもに問題があると気づく親は少ない。
「うちの子にかぎって……」「そんなはずはない……」と、親は親で、がんばる。
A君のドラ息子性は、さらにはげしくなった。
小学5、6年になるころには、まさに王様。
食事も、ソファに寝そべって食べるようになった。
母親が、そこまで盆にのせて、A君に食事を届けた。
母親は、A君のほしがるものを、一度は拒(こば)んではみせるものの、結局は、買い与えていた。
「機嫌をそこねたら、塾へも行かなくなる」と。
本来なら、こうした異常な母子関係を調整するのは、父親の役目ということになる。
が、A君の父親は、静かで、やさしい人だった。
家庭のことには、ほとんど関心を示さなかった。
仕事から帰ってくると、自分の部屋で、ひとりでビデオの編集をして時間をつぶしていた。
……というわけで、子どものドラ息子性、ドラ娘性の問題は、いかに早い段階で、親がそれに気づくか、それが大切。
早ければ早いほど、よい。
できれば3、4歳ごろには、気づく。
(それでも遅いかもしれない。)
というのも、この問題は、家庭がもつ(子育てのリズム)に、深く関係している。
そのリズムを変えるのは、容易なことではない。
1年や2年はかかる。
あるいは、もっと、かかる。
さらに親自身がもつ、子育て観を変えるのは、ほぼ不可能とみてよい。
それこそ行き着くところまで行き、絶望のどん底にたたき落とされないかぎり、親も、それに気づかない。
ある母親は、自分の子ども(中3男子)が、万引き事件を起こしたとき、一晩で、事件そのものを、もみ消してしまった。
あちこちを回り、お金で解決してしまった。
また別の子ども(高1男子)は、無免許で車を運転し、隣家の塀を壊してしまった。
そのときも、母親が、一晩で、事件そのものをもみ消してしまった。
こういうことを繰りかえしながら、親はドン底にたたき落とされる。
で、やっとそのころになると、自分の(まちがい)に気づく。
それまでは、気づかない。
ひょっとしたら、この文章を読んでいるあなた自身も、その1人かもしれない。
が、ほとんどの人は、こういう文章を読んでも、「私には関係ない」と、無視する。
これは子育てがもつ、宿命のようなもの。
そこで教訓。
あなたの子どもが、わがままで自分勝手なら、子どもを責めても意味はない。
責めるべきは、あなた自身。
反省すべきは、家庭環境そのもの。
あなたの育児姿勢。
家庭のリズム。
あなたの人生観、それに子育て観。
子どもだけを見て、子どもだけをなおそうと考えても、ぜったいになおらない。
なおるはずもない。
この問題は、そういう問題である。
+++++++++++++++
ドラ息子、ドラ娘について書いた
原稿を、いくつか添付します。
一部ダブりますが、お許しください。
+++++++++++++++
●子どもをよい子にしたいとき
●どうすれば、うちの子は、いい子になるの?
「どうすれば、うちの子どもを、いい子にすることができるのか。
それを一口で言ってくれ。
私は、そのとおりにするから」と言ってきた、強引な(?)父親がいた。
「あんたの本を、何冊も読む時間など、ない」と。
私はしばらく間をおいて、こう言った。
「使うことです。使って使って、使いまくることです」と。
そのとおり。
子どもは使えば使うほど、よくなる。
使うことで、子どもは生活力を身につける。
自立心を養う。
それだけではない。
忍耐力や、さらに根性も、そこから生まれる。
この忍耐力や根性が、やがて子どもを伸ばす原動力になる。
●100%スポイルされている日本の子ども?
ところでこんなことを言ったアメリカ人の友人がいた。
「日本の子どもたちは、100%、スポイルされている」と。
わかりやすく言えば、「ドラ息子、ドラ娘だ」と言うのだ。
そこで私が、「君は、日本の子どものどんなところを見て、そう言うのか」と聞くと、彼は、こう教えてくれた。
「ときどきホームステイをさせてやるのだが、料理の手伝いはしない、食事のあと、食器を洗わない。
片づけない。
シャワーを浴びても、あわを洗い流さない。
朝、起きても、ベッドをなおさない」などなど。
つまり、「日本の子どもは何もしない」と。
反対に夏休みの間、アメリカでホームステイをしてきた高校生が、こう言って驚いていた。
「向こうでは、明らかにできそこないと思われるような高校生ですら、家事だけはしっかりと手伝っている」と。
ちなみにドラ息子の症状としては、次のようなものがある。
●ドラ息子症候群
(1) ものの考え方が自己中心的。
自分のことはするが他人のことはしない。
他人は自分を喜ばせるためにいると考える。
ゲームなどで負けたりすると、泣いたり怒ったりする。
自分の思いどおりにならないと、不機嫌になる。
あるいは自分より先に行くものを許さない。
いつも自分が皆の中心にいないと、気がすまない。
(2) ものの考え方が退行的。約束やルールが守れない。
目標を定めることができず、目標を定めても、それを達成することができない。
あれこれ理由をつけては、目標を放棄してしまう。
ほしいものにブレーキをかけることができない。
生活習慣そのものがだらしなくなる。
その場を楽しめばそれでよいという考え方が強くなり、享楽的かつ消費的な行動が多くなる。
(3) ものの考え方が無責任。
他人に対して無礼、無作法になる。
依存心が強い割には、自分勝手。
わがままな割には、幼児性が残るなどのアンバランスさが目立つ。
(4) バランス感覚が消える。
ものごとを静かに考えて、正しく判断し、その判断に従って行動することができない、など。
●原因は家庭教育に
こうした症状は、早い子どもで、年中児の中ごろ(4・5歳)前後で表れてくる。
しかし一度この時期にこういう症状が出てくると、それ以後、それをなおすのは容易ではない。
ドラ息子、ドラ娘というのは、その子どもに問題があるというよりは、家庭のあり方そのものに原因があるからである。
また私のようなものがそれを指摘したりすると、家庭のあり方を反省する前に、叱って子どもをなおそうとする。
あるいは私に向かって、「内政干渉しないでほしい」とか言って、それをはねのけてしまう。
あるいは言い方をまちがえると、家庭騒動の原因をつくってしまう。
●子どもは使えば使うほどよい子に
日本の親は、子どもを使わない。
本当に使わない。
「子どもに楽な思いをさせるのが、親の愛だ」と誤解しているようなところがある。
だから子どもにも生活感がない。
「水はどこからくるか」と聞くと、年長児たちは「水道の蛇口」と答える。
「ゴミはどうなるか」と聞くと、「どこかのおじさんが捨ててくれる」と。
あるいは「お母さんが病気になると、どんなことで困りますか」と聞くと、「お父さんがいるから、いい」と答えたりする。
生活への耐性そのものがなくなることもある。
友だちの家からタクシーで、あわてて帰ってきた子ども(小6女児)がいた。
話を聞くと、「トイレが汚れていて、そこで用をたすことができなかったからだ」と。
そういう子どもにしないためにも、子どもにはどんどん家事を分担させる。
子どもが二~四歳のときが勝負で、それ以後になると、このしつけはできなくなる。
●いやなことをする力、それが忍耐力
で、その忍耐力。
よく「うちの子はサッカーだと、一日中しています。
そういう力を勉強に向けてくれたらいいのですが……」と言う親がいる。
しかしそういうのは忍耐力とは言わない。
好きなことをしているだけ。
幼児にとって、忍耐力というのは、「いやなことをする力」のことをいう。
たとえば台所の生ゴミを始末できる。
寒い日に隣の家へ、回覧板を届けることができる。
風呂場の排水口にたまった毛玉を始末できる。
そういうことができる力のことを、忍耐力という。
こんな子ども(年中女児)がいた。その子どもの家には、病気がちのおばあさんがいた。
そのおばあさんのめんどうをみるのが、その女の子の役目だというのだ。
その子どものお母さんは、こう話してくれた。
「おばあさんが口から食べ物を吐き出すと、娘がタオルで、口をぬぐってくれるのです」と。
こういう子どもは、学習面でも伸びる。
なぜか。
●学習面でも伸びる
もともと勉強にはある種の苦痛がともなう。
漢字を覚えるにしても、計算ドリルをするにしても、大半の子どもにとっては、じっと座っていること自体が苦痛なのだ。
その苦痛を乗り越える力が、ここでいう忍耐力だからである。
反対に、その力がないと、(いやだ)→(しない)→(できない)→……の悪循環の中で、子どもは伸び悩む。
……こう書くと、決まって、こういう親が出てくる。
「何をやらせればいいのですか」と。
話を聞くと、「掃除は、掃除機でものの10分もあればすんでしまう。
買物といっても、食材は、食材屋さんが毎日、届けてくれる。
洗濯も今では全自動。
料理のときも、キッチンの周囲でうろうろされると、かえってじゃま。
テレビでも見ていてくれたほうがいい」と。
●家庭の緊張感に巻き込む
子どもを使うということは、家庭の緊張感に巻き込むことをいう。
親が寝そべってテレビを見ながら、「玄関の掃除をしなさい」は、ない。
子どもを使うということは、親がキビキビと動き回り、子どももそれに合わせて、すべきことをすることをいう。
たとえば……。
あなた(親)が重い買い物袋をさげて、家の近くまでやってきた。
そしてそれをあなたの子どもが見つけたとする。
そのときさっと子どもが走ってきて、あなたを助ければ、それでよし。
しかし知らぬ顔で、自分のしたいことをしているようであれば、家庭教育のあり方をかなり反省したほうがよい。
やらせることがないのではない。
その気になればいくらでもある。
食事が終わったら、食器を台所のシンクのところまで持ってこさせる。
そこで洗わせる。
フキンで拭かせる。さらに食器を食器棚へしまわせる、など。
子どもを使うということは、ここに書いたように、家庭の緊張感に巻き込むことをいう。
たとえば親が、何かのことで電話に出られないようなとき、子どものほうからサッと電話に出る。
庭の草むしりをしていたら、やはり子どものほうからサッと手伝いにくる。
そういう雰囲気で包むことをいう。
何をどれだけさせればよいという問題ではない。
要はそういう子どもにすること。
それが、「いい子にする条件」ということになる。
●バランスのある生活を大切に
ついでに……。
子どもをドラ息子、ドラ娘にしないためには、次の点に注意する。
(1) 生活感のある生活に心がける。
ふつうの寝起きをするだけでも、それにはある程度の苦労がともなうことをわからせる。
あるいは子どもに「あなたが家事を手伝わなければ、家族のみんなが困るのだ」という意識をもたせる。
(2)質素な生活を旨とし、子ども中心の生活を改める。
(3)忍耐力をつけさせるため、家事の分担をさせる。
(4)生活のルールを守らせる。
(5)不自由であることが、生活の基本であることをわからせる。そしてここが重要だが、
(6)バランスのある生活に心がける。
ここでいう「バランスのある生活」というのは、きびしさと甘さが、ほどよく調和した生活をいう。
ガミガミと子どもにきびしい反面、結局は子どもの言いなりになってしまうような甘い生活。
あるいは極端にきびしい父親と、極端に甘い母親が、それぞれ子どもの接し方でチグハグになっている生活は、子どもにとっては、決して好ましい環境とは言えない。
チグハグになればなるほど、子どもはバランス感覚をなくす。
ものの考え方がかたよったり、極端になったりする。
子どもがドラ息子やドラ娘になればなったで、将来苦労するのは、結局は子ども自身。
それを忘れてはならない。
●子どもの金銭感覚
年長(6歳)から小学2年(8歳)ぐらいの間に、子どもの金銭感覚は完成する。
その金銭感覚は、おとなのそれと、ほぼ同じになるとみてよい。
が、それだけではない。
子どもはこの時期を通して、お金によって物欲を満たす、その満たし方まで覚えてしまう。
そしてそれがそれから先、子どものものの考え方に、大きな影響を与える。
この時期の子どものお金は、100倍して考えるとよい。
たとえば子どもの100円は、おとなの1万円に相当する。
1000円は、10万円に相当する。
親は安易に子どもにものを買い与えるが、それから子どもが得る満足感は、おとなになってからの、1万円、10万円に相当する。
「与えられること」に慣れた子どもや、「お金によって欲望を満足すること」に慣れた子どもが、将来どうなるか。もう、言べくもない。
さすがにバブル経済がはじけて、そういう傾向は小さくなったが、それでも「高価なものを買ってあげること」イコール、親の愛と誤解している人は多い。
より高価なものを買い与えることで、親は「子どもの心をつかんだはず」と考える。
あるいは「子どもは親に感謝しているはず」と考える。
が、これはまったくの誤解。実際には、逆効果。
それだけではない。
ゆがんだ金銭感覚が、子どもの価値観そのものを狂わす。
ある子ども(小2男児)は、こう言った。
「明日、新しいゲームソフトが発売になるから、ママに買いに行ってもらう」と。
そこで私が、「どんなものか、見てから買ってはどう?」と言うと、「それではおくれてしまう」と。
その子どもは、「おくれる」と言うのだ。
最近の子どもたちは、他人よりも、より手に入りにくいものを、より早くもつことによって、自分のステイタス(地位)を守ろうとする。
物欲の内容そのものが、昔とは違う。
変質している。……というようなことを考えていたら、たまたまテレビにこんなシーンが出てきた。
援助交際をしている女子高校生たちが、「お金がほしいから」と答えていた。
「どうしてそういうことをするのか」という質問に対して、である。
しかも金銭感覚そのものが、マヒしている。
もっているものが、10万円、20万円という、ブランド品ばかり!
さて、誕生日。さて、クリスマス。
あなたは子どもに、どんなものを買い与えるだろうか。
1000円のものだろうか。
それとも1万円のものだろうか。
お年玉には、いくら与えるだろうか。
与えるとしても、それでほしいものを買わせるだろうか。
それとも、貯金をさせるだろうか。
いや、その前に、それを与えるにふさわしいだけの苦労を、子どもにさせているだろうか。
どちらにせよ、しかしこれだけは覚えておくとよい。
5、6歳の子どもに、1万、2万円のプレゼントをホイホイと買い与えていると、子どもが高校生や大学生になったとき、あなたは100万円、200万円のものを買い与えなくてはならなくなる。
つまりそれくらいのことをしないと、子どもは満足しなくなる。
あなたにそれだけの財力と度量があれば話は別だが、そうでないなら、子どものために、やめたほうがよい。
やがてあなたの子どもは、ドラ息子やドラ娘になり、手がつけられなくなる。
そうなればなったで、苦労するのはあなたではなく、結局は子ども自身なのだ。
●ドラ息子症候群
英語の諺に、『あなたは自分の作ったベッドの上でしか、寝られない』というのがある。
要するにものごとには結果があり、その結果の責任はあなたが負うということ。
こういう例は、教育の世界には多い。
子どもをさんざん過保護にしておきながら、「うちの子は社会性がなくて困ります」は、ない。
あるいはさんざん過干渉で子どもを萎縮させておきながら、「どうしてうちの子はハキハキしないのでしょうか」は、ない。
もう少しやっかいなケースでは、ドラ息子というのがいる。M君(小3)は、そんなタイプの子どもだった。
口グセはいつも同じ。
「何かナ~イ?」、あるいは「何かほシ~イ」と。
何でもよいのだ。
その場の自分の欲望を満たせば。
しかもそれがうるさいほど、続く。
そして自分の意にかなわないと、「つまんナ~イ」「たいくツ~ウ」と。
約束は守れないし、ルールなど、彼にとっては、あってないようなもの。
他人は皆、自分のために動くべきと考えているようなところがある。
そのM君が高校生になったとき、彼はこう言った。
「ホームレスの連中は、人間のゴミだ」と。
そこで私が、「誰だって、ほんの少し人生の歯車が狂うと、そうなる」と言うと、「ぼくはならない。バカじゃないから」とか、「自分で自分の生活を守れないヤツは、生きる資格などない」とか。
こうも言った。
「うちにはお金がたくさんあるから、生活には困らない」と。
M君の家は昔からの地主で、そのときは祖父母の寵愛を一身に集めて育てられていた。
いろいろな生徒に出会うが、こういう生徒に出会うと、自分が情けなくなる。
教えることそのものが、むなしくなる。「こういう子どもには知恵をつけさせたくない」とか、「もっとほかに学ぶべきことがある」というところまで、考えてしまう。
そうそうこんなこともあった。
受験を控えた中3のときのこと。M君が数人の仲間とともに万引きをして、補導されてしまった。
悪質な万引きだった。
それを知ったM君の母親は、「内申書に影響するから」という理由で、猛烈な裏工作をし、その夜のうちに、事件そのものを、もみ消してしまった。
そして彼が高校二2生になったある日、私との間に大事件が起きた。
その日私が、買ったばかりの万年筆を大切そうにもっていると、「ヒロシ(私のことをそう呼んでいた)、その万年筆のペン先を折ってやろうか。
折ったら、ヒロシはどうする?」と。
そこで私は、「そんなことをしたら、お前を殴る」と宣言したが、彼は何を思ったか、私からその万年筆を取りあげると、目の前でグイと、そのペン先を本当に折ってしまった!
とたん私は彼に飛びかかっていった。
結果、彼は目の横を数針も縫う大けがをしたが、M君の母親は、私を狂ったように責めた。
(私も全身に打撲を負った。念のため。)
「ああ、これで私の教師生命は断たれた」と、そのときは覚悟した。
が、M君の父親が、私を救ってくれた。
うなだれて床に正座している私のところへきて、父親はこう言った。
「先生、よくやってくれました。ありがとう。心から感謝しています。本当にありがとう」と。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●ドラ息子
ドラ息子かどうかは、早い子どもで、年中児の中ごろ(4歳半)前後でわかるようになる。
しかし一度この時期にこういう症状が出てくると、それ以後、それをなおすのは容易ではない。
ドラ息子、ドラ娘というのは、その子どもに問題があるというよりは、家庭のあり方そのものに原因があるからである。
また私のようなものがそれを指摘したりすると、家庭のあり方を反省する前に、叱って子どもをなおそうとする。
あるいは私に向かって、「内政干渉しないでほしい」とか言って、それをはねのけてしまう。
あるいは言い方をまちがえると、家庭騒動の原因をつくってしまう。
日本の親は、子どもを使わない。本当に使わない。
「子どもに楽な思いをさせるのが、親の愛だ」と誤解しているようなところがある。
だから子どもにも生活感がない。
「水はどこからくるか」と聞くと、年長児たちは「水道の蛇口」と答える。
「ゴミはどうなるか」と聞くと、「どこかのおじさんが捨ててくれる」と。
あるいは「お母さんが病気になると、どんなことで困りますか」と聞くと、「お父さんがいるから、いい」と答えたりする。生活への耐性そのものがなくなることもある。
友だちの家からタクシーで、あわてて帰ってきた子ども(小6女児)がいた。
話を聞くと、「トイレが汚れていて、そこで用をたすことができなかったからだ」と。
そういう子どもにしないためにも、子どもにはどんどん家事を分担させる。子どもが二~四歳のときが勝負で、それ以後になると、このしつけはできなくなる。
で、その忍耐力。
よく「うちの子はサッカーだと、一日中しています。
そういう力を勉強に向けてくれたらいいのですが……」と言う親がいる。
しかしそういうのは忍耐力とは言わない。好きなことをしているだけ。
幼児にとって、忍耐力というのは、「いやなことをする力」のことをいう。
たとえば台所の生ゴミを始末できる。寒い日に隣の家へ、回覧板を届けることができる。風呂場の排水口にたまった毛玉を始末できる。そういうことができる力のことを、忍耐力という。
こんな子ども(年中女児)がいた。
その子どもの家には、病気がちのおばあさんがいた。そのおばあさんのめんどうをみるのが、その女の子の役目だというのだ。その子どものお母さんは、こう話してくれた。「おばあさんが口から食べ物を吐き出すと、娘がタオルで、口をぬぐってくれるのです」と。こういう子どもは、学習面でも伸びる。なぜか。
もともと勉強にはある種の苦痛がともなう。
漢字を覚えるにしても、計算ドリルをするにしても、大半の子どもにとっては、じっと座っていること自体が苦痛なのだ。
その苦痛を乗り越える力が、ここでいう忍耐力だからである。
反対に、その力がないと、(いやだ)→(しない)→(できない)→……の悪循環の中で、子どもは伸び悩む。
●補記(2012-03-02)
ドラ息子、ドラ娘と評してよい子どもは、少なくない。
もちろん程度の差もある。
が、症状がひどくなると、少しでも自分の意に反したような状況、状態になると、はげしい(かんしゃく発作)を引き起こす。
かんしゃく発作そのものは、「家庭教育の失敗」(育児辞典)と、位置づけられている。
私が「失敗」と言っているのではない。
心理学や育児の辞典に、そう書いてある。
(以前、「失敗」と書いたことに対し、「他人の子育てについて、失敗とは何ごとか」と抗議してきた人がいた。
それであえて、ここでこのように書いておく。)
突発的に狂乱状態になり、暴れたり、暴言を吐いたりする。
親や先生に向かって暴言を吐いたり、ときには、そのまま家(教室)を出ていってしまったりする。
が、そのとき2つの問題点があげられる。
(1) 子ども側の問題
親が自分の子どもをドラ息子、ドラ娘にするについて、それなりの(原因)があることが多い。
たとえばLD児であったり、自閉症であったりなど。
親がそうした子どもの問題に神経質になるのはしかたないとしても、それがときとして過剰になりやすい。
まさに「腫れ物に触れるような育児」を繰り返す。
気をつかい、つねに機嫌を取る。
ほんの少しでも子どもが機嫌をそこねたりすると、「ごめんね」を繰り返す。
(親が、子どもに、だぞ!)
これがもとからあった障害を、複雑化する。
(2)親側の問題
ドラ息子、ドラ娘は、親の育児姿勢が原因である。
が、その親自身にも問題があることが多い。
情緒的な欠陥、精神的な未熟性が原因となり、過保護、過関心、溺愛へと走る。
子どもに対し、育児姿勢が極端化する。
つまりベタベタの子育てを繰り返す。
これが子どもをして、ドラ息子、ドラ娘にする。
で、私の経験から、こんなことが言える。
先にも書いたように、ドラ息子、ドラ娘の問題は、子どもの問題ではない。
家庭環境の問題である。
親自身に問題があることもある。
それだけに、「子どもを直す」ということは、容易なことではない。
……というより、不可能。
家庭のリズムそのものを、変えなければならない。
大切なことは、その前の段階で、それに気づき、子どもをドラ息子、ドラ娘にしないこと。
またそのためには、風通しのよい育児環境をもつこと。
他人の家庭をのぞき、他人の子育てを知る。
意見を聞き、参考にする。
「私の子育てがいちばん正しい」とか、「私の子どものことは、私がいちばんよく知っている」と、豪語する親ほど、「失敗」しやすい。
ドラ息子であるか、ドラ娘であるかは、何度も書くが、満4・5歳前後には、はっきりする。
エリクソンが説くところの、幼児期前期(自律期)までの育児環境が、決定的な影響を与える。
なお指導の場では、ドラ息子、ドラ娘に対しては、「無視する」という方法で、対処する。
相手が幼児や小学生では、叱っても意味はない。
自分を客観的に評価する力そのものが、ない。
そのため本人自身が、それを自覚するということはない。
要するに、「わがままを言っても、無駄」という雰囲気を、少しずつ作りあげていく。
その時期は早ければ早いほどよい。
小学生になってからだと、それがその子どもの性格として定着してしまう。
さらに高学年になると、暴力を伴うようになる。
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